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「つなぐ」って難しい

震災から10年が経つ、と気づいた。
つまり、2011年に生まれたひとが10歳になるということだ。
はたまた、新型インフルエンザが流行した年に生まれたひとは、
今年、あの時のわたしと同じ12歳になる。

勝手に赤ちゃんだと思っていたのに、早いものである。

でもそれは、時間が経っていることも意味する。
震災発生時や新型インフルエンザ流行時に、物心がついていなかったり、生まれていなかったりしたひとが、多数派になる日が近いということ。

彼ら彼女らは、震災を、新型インフルエンザを、
学校の授業でその当時の話を聞いたり、
教科書に載っていたり、
テレビで取り上げられたりしているのを見ているとしても、
じぶんの経験を持って語ることは少ないのだろうか。

そう思うと、このままだと「ただの歴史」になってしまうのではないかという危機感にも似たような感情を抱く。

わたしが思う、子どものころの出来事で印象に残っているものは、
震災と新型インフルエンザの流行である。


新型インフルエンザが流行した時のわたしと、影響

当時、わたしは小6だった。
感染症の脅威を初めて自分事に感じたのが、新型インフルエンザの流行であった。
最初の頃は「豚インフルエンザ」って言われていて、ニュースで「豚肉は食べたくないなあ」って街頭インタビューに答えているひとがいた。
完全なる風評被害である。
夏の暑さが落ち着くにつれ、罹患者が増えた…ように記憶している。
すると、9月にある運動会の1週間前に、5・6年生が学年閉鎖になってしまい、運動会の開催が危ぶまれた。
運動性で必ずやっていた踊りは1年生に6年生に教える伝統があったけど、
6年生が学年閉鎖になってできなくなってしまい、その年からやらなくなってしまった。
だからきっと、わたしより5歳以上下で、わたしと同じ小学校に通った(通っている)ひとは、その踊りを知らないと思う。わたしも正直踊れるか怪しい。
修学旅行の直前にも6年生が学年閉鎖になって、修学旅行にも行けない可能性があった。
毎年1月に開催されていて、わたしの小学校も毎年出ていて、最後だったバンドフェスティバル(通称バンフェス)が中止になって、わたしの友だちは泣いていた。

当時中3だった先輩方は、6月に関西方面に行く予定だった修学旅行が9月に延期になったら、吹奏楽コンクールの西関東大会の前日と重なってしまい、吹奏楽部員だけ1日早く帰ってきたらしい。

ちなみにわたしも新型インフルエンザに罹患した。
幼馴染のお家で、何人かで集まって遊んでいたら移ってしまった。
そしてその場にいた幼馴染も全員かかった。
4歳下の幼なじみはリレンザが上手く吸えなくて、別の薬を処方してもらっていた。

震災の時のわたしと、影響

震災の時は中1だった。
先輩方の卒業式で演奏し、楽器を音楽室に運び、お弁当を食べて部活をしていた。
ちょうど課題曲の合奏練習をしていて、顧問の先生からフィードバックを受けていたら揺れた。
今まで感じたことがない揺れで、「これ地震か?」という空気になり始めたころ、部長を務めていた先輩が「椅子の下隠れろ!」と声をあげた。
わたしらは隠れるところがなくて、楽器の下に潜った(いいことではないけれど)。
顧問の先生は、「(音楽室についていた)テレビ付けて。」とわたしの先輩に頼んでいた。
テレビを付けると、かなり大きい地震である様子が報道されていた。
倒れると危ない楽器を床に降ろして、避難した。
その日は部活どころではなくなり、帰宅することとなった。

この震災は、今までのそれとは規模が違った。
テレビでは連日被災状況が伝えられた。
CMの多くはACのものになった。
計画停電が実施され、母の友人でオール電化の家を建てた友人は困り果てていた。
地元は計画停電がなかったけれど、給食が1週間止まった。
ホッケの塩焼きが出る予定だった日があったのだけど、この給食が止まった1週間に重なってしまい、出なかった。
友だちが残念がっていた。
みかんしか出なかった日があったのだけど、小食な幼馴染はそのみかんでお腹いっぱいになったと聞いて、驚いた。
自粛でエアコンが使えず、人生で初めて学校で石油ストーブを見た。
中2に進級し、少年の主張に取り組むと、多くのクラスメイトや先輩方の主張内容は震災のことだった。

少年の主張といえば。
当時のわたしの中学では、全校生徒全員が主張を書いて、クラス代表をそこから何本か選んで、そこから学年代表を、各学年の代表から学校代表を選んでいた。
わたしの学年から出た学年代表の中で、「勉強の大事さ(意訳)」というような内容の主張を書いたひとがいた。
裾野が狭いと積み上げられるものは少ないけれど、
裾野が広いとより多くのものを積み上げられる。
勉強とはその裾野を広げる行為だ、という内容だったと思う。
その主張を聞いて、ああその通りだと思った。

当時よく、顧問の先生に
「無知ほど怖いものはない。」と言われていた。
言われていた時は「無知であるがゆえに、恥ずかしい思いをする」という意味だと思っていた。
けれど、それ以外の意味もあるのでは、と思うようになった。
地震による原発事故で、避難した方に心無い言葉を浴びせたり、福島ナンバーに嫌がらせをしたりするひとが報道されたけど、
そのひとたちは「放射能は移る」と思っていたらしい。
きっと、学校でやった(おそらく)物理に真面目に取り組んでいたら、
こんな考えは起きなかったと思う。

同学年の少年の主張を聞いたことも相まって、
(学校の)勉強を疎かにしたが故に傷つけるひとがたくさんいる、と14歳ながら思ったのを覚えている。
それと同時に、
「”無知ほど怖いものはない”ってこういうことなんかな」とも思った。

10年、12年経って思うこと

月日の経つのは早いもので、もう10年もしくは12年が経った。

ついこの間起きたと思っていたのに、早いものである。
あと何年かしたら、
「新型インフルエンザってなんですか?」
「3.11ってなんですか?」
って聞かれる日も近いと思うと、恐ろしい。
(新型インフルエンザについてはわたしとあまり年が離れていない、もしくはかなり年上のひとでさえ覚えていないひともいるくらいだ。)

けれど、わたしも実体験を持って語れぬ出来事がたくさんある。
オイルショック。あさま山荘。ホテルニュージャパン。地下鉄サリン事件。山一証券の倒産。9.11。

オイルショックは、教科書でトイレットペーパーを求めてもみくちゃになる写真をよく見た。
あさま山荘は、鉄球をぶつける映像をよくテレビで見たし、うちの母の「子どもの頃に起きた印象的なできごと」でもある。
ホテルニュージャパン火災は、中学の社会の先生に、それを扱った「プロジェクトX」をたくさん見せてもらった。
地下鉄サリン事件も、山一証券の倒産も、9.11も、テレビでよく扱っている。

でも、これらの出来事の時、わたしは生れていないか、生まれたばっかりか、幼くて物心がついていなかったのである。
だから、覚えていなかったり知らなかったりする。

そうに考えれば、少し年下のひとからすれば、震災や新型インフルエンザがわたしにとっての地下鉄サリン事件と同じような存在になってもおかしくないのだ。


でもだからといって、つながなくていいものではない。
災害の恐ろしさをつながなければ、また同じように、もしくはそれ以上の被害を受ける。
無知がゆえに、不安がゆえにひとを傷つけたことをつながなければ、
また同じようにひとを傷つけ、最悪の場合は殺してしまう。
絶対はない、ということをつながなければ、予想だにしていない事態が発生した時に狼狽してしまう。
医療機関や医療職が懸命に仕事をしたことをつながなければ、
また何か災害などがあった時に対応できるノウハウがなきものになってしまう。
防火体制が脆弱で、利潤や効率ばかりを追い求めていたことをつながなければ、
ひとを殺してしまう。
付和雷同で動くのではなく、情報を精査して、踊らされぬように行動しなければ、買い占めが起き、必要なひとに届かなくなってしまう。

こういうことは、そういったことが起きた、と「記録」して、
色々な手段で「継承」していかなければ、
忘れられてしまう。
そして、じぶんをより美しい玉にするべく磨く材料にして、
そういったことがあったと、同じことしない、と誓い、
そうあるために行動しなければ、繰り返されてしまう。
事実、新型コロナウイルス禍における諸々の報道も、
過去から何も学んでいないのか、と言いたくなるものもある。

今、生きている人間の責務は何か。
「いま」を記録すること。
それを継承すべく、活動すること。
実体験はなくとも、次世代につなぐこと。
つないだものを、落とさないこと。

ぜんぶだ。
すべての事象においてすべての役割を果たさずとも、
何かの役割なら果たせることもあろう。

「生まれてないから」「幼かったから」知らなくていいことなんて、ない。

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