見出し画像

つくりかたを知って買うのは良い

わたしは長らく産地で働く人だった。つくっている場所で布を売っていた。多くの人が、びっくりするほど原始的なつくりかたに感動して(本当に、「感動」だったと思う)、その布がつくり続けられてほしいと直観して、そこにある連綿と続いてきた大きな流れに参加したいという思いも含めて、布を求めてくれた。だから、その良さは重々知っているはずなのだが、あらためて、良いですね。

赤木明登さんのところで器をいただいのは、すごく満ちた気持ちになることだった。ステイホームが続いて、何らかの現場に行くのが久しぶりだったのもあって、やっぱり、実際にその場にいくことの情報量ってものすごいと思った。

工房に着くと、まず若いお弟子さんが玄関で迎えてくれた。靴を脱ごうとするところで「脱いだらそのままでどうぞ」と声かけをしてくれる。「ではお言葉に甘えて」と、靴の向きを直さず脱いだままであがらせてもらった。

これは、工房としての出迎えの作法があるんだ、と思った。客商売の場ではないから、厳密なものではないだろうけど、でも何らかの教えや方針みたいなものがあるはずだと思った。なかったとしたら余計に、客を気持ちよく迎えようとお弟子さんが思えるのは、とても良い職場ってことだと思う。それを端緒に、訪問全体を通じて、赤木さんは作家だけれど親方でもあると理解した。

よく媒体に掲載されている、川に張り出したテラスにつながるリビングまで歩いた途端、子どもならではのアクシンデントが起きた。何がどうなったのか頭が追いつかない間に、お弟子さんたちがさささっと片付けてくださった。赤木さんもサラッとした反応だった。とてもありがたかった。

輪島塗は分業である。製品になるまでにたくさんの工程があって、それぞれ請け負う人がいる。産地で働いていたから、分業とはどういうことか、わかるつもりではある。でもその分業方法はやっぱり産地ごとに違って、わかるようでいて、なかなかわからない。分業なのだから、ひとつの工房だけみてもわからない。

だから、輪島塗については一度輪島に行ったくらいではわからないし、赤木さんの工房のことだってわからないのだが、ただ、行く前よりも、分業が実感として、リアリティを持って感じられるようにはなった。

要は、たくさんの人が関わって、ひとつのものができてるってことで、陶器やガラスだったら作家さんがひとりで素材の選定から完成までやるのだと思うが、そうじゃないところで作家としてやることは、自分以外の人の仕事に対しても、自分が責任を負うことだ。

興味深いお話をたくさん伺ったので、くわしいことはまた別に記事にして書くけど、求めたお皿は、生地をつくる人と、お弟子さんの仕事と、赤木さんの仕事と、たくさんの人の手を経ていて、そこには塗師(ぬし)としてだけでない(輪島において塗師っていうのがそのままプロデューサー的役割も負うのかどうかは定かでないが)全体をひとつの品としてまとめる親方としての赤木さんの仕事も含まれていて、なんかそれが、すごくいいなあと思った。

色々な人の仕事がそのひとつのものに結晶してること。赤木さんはそういうものづくりをされる人なのだった。著書には確かにそう書いてあった気がするような、しないような。でもやっぱり、本含めてメディアを通じてわかることは、赤木さんの考えであり、赤木さんは塗師の姿をまとった哲学者やなってくらい言語能力に長けた人であるから、著書を読んでいるとその表現力に圧倒されるんだけど、そこで受ける印象と、実際に伺って感じた親方としての器の大きい感じや、人懐こい、ものすごくいい人なんではって感じは、けっこう違っていた。

お弟子さんも、みなさんとても感じの良い方々で、その人たちの仕事も、求めたものに含まれてるってことも、嬉しいのよね。

それらは行かなければわからなかったことで、わかって、すごく嬉しくなることだった。嬉しくなったときに出会ったものが、ものとして家にあるのも嬉しいことだ。

帰り際には奥様が子どもと踊って遊んでくれた。子どもは初対面の人の前ではめったに踊らないのに、めちゃくちゃ踊ってピョンピョン跳ねた。研ぎ澄まされているけれど、包容力もある方達だった。子どももどーんと受け入れてもらえると、なんか、自分で理解している自分の感情以上に嬉しく思うみたいだ。とにかく色々嬉しかった。

ということで、産地に行って、つくっている人の話をきいて、その人のつくったものを求めるって、あらためて、良い買い物だと思います。

写真は誕生日ケーキ。赤木家ではパン皿(その日に求めたもの)を使うとうかがったので、真似してみた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?