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差別について-2 人は5つの層にいる

わたしはすべての不平等、格差がなくなるべきとは思わない。無理なので望んでも意味ないし、無理なことをするとまたおかしなことになると思う。これはちょっと誤解を生みやすい表現なので整理してみよう。

人が生きている場は何層にもなっていて

1.宇宙に繋がってる物理のレベル

2.地球の生態系のレベル

---1と2ではヒトも他の動物も微生物もあるものはみんな等価---

3.身体の性差がある動物としてのヒトのレベル

4.その土地固有の自然環境と結びついた文化で暮らす人のレベル

5.国や世界経済やグローバルスタンダードやジェンダーや人権や男女平等や多文化共生やダイバーシティがある人のレベル

この5層のイメージ。

数字が若いほど広くて大きくて、上にある層の土台になってる。それぞれに影響しあったり、一部混ざったり内包されてたり、はっきりペカーっと分かれてるわけじゃないけど、こんな感じかと。

5にいるわたしたちは、5が過密に複雑になりすぎて、5を泳ぐだけでめいっぱいで、1〜2がほとんど意識の外にある。知ってるのは専門家だけで、でも専門家もほとんどの人は細分化されたその領域のことしか知らない。わたしたちはそのことを知らずに、専門家に期待しすぎてる。

3についてもほぼ意識の外。ただ女性の方が、月に一度の生理や、妊娠出産をすればなお、3に引きずり込まれるので、体感としては持ちやすい。富山大で男女共同参画について「人も動物なので動物として持ってる身体から離れた仕組みのなかではみんな辛い」的な話をした時に、男性の教授たちが「人も動物なんだ!」と新鮮におもしろがってくれたのが印象的だった。こんなに忘れてるんだなあと思った。

4についてもかなり失ってきてる。でも4は、表層は失われても、心性としてまだまだ脈々とその土地で育つ人のなかに継がれてる。それが地域性や県民性や国民性ってされるもので、それは自然環境と結びついたものだから、地球環境が均一にならない限りなくならない。

5はあくまでも、1〜4の上に乗っかってるもの。ただ乗っかってるだけじゃないけど、1〜4がなければ5もない、そういうもの。

だから、5のなかにある問題を5のなかだけで解決しようとしてもできない。無理が生じてどこかに負担がいく。

なんだけど、5は乗っかってるものだってこと、意外と自覚されてない。5のなかのものの考え方、システムに、わたしたちは何よりも強く影響されて生きているから、それを相対化する視点が持ちづらい。

今の世のインテリジェンスは主に、5の中にある記号を扱う能力だから、ますます1〜4を忘れやすい。でも忘れてない人もいて、そういう人の書いてくれた本のおかげで、わたしは1〜5の層がイメージできる。

5の中で生じてる不平等や格差は、3と結びついてる非対称性や、4に関係する心性、1〜4にある多様性が、5のシステムと合ってない、一律に当てはめられる、無理に押しつけられることで生じてる可能性が高い。

それは本当に格差なのか。その人は本当に弱者なのか。格差として認識させる、ないし格差を実害にする、弱者にしてしまう、仕組みがあるだけなんじゃないか。

持ってないことは豊かさ、弱いことは強さ、ほんとうはそういうもののはず。

たぶん必要なのは、非対称や不均衡や差異が、不平等や格差にならないシステム。

システム対個人じゃなくて、システム対システムだと思うんだ、どこまでいっても。個人を飲み込むシステムじゃなくて、個人を大事にするシステムがあるはずなんだ。それを実現するには個は個を大事にしてやってくしかないってことなんだろうけれども。

どうも抽象的になっちゃうけど具体的な話はまたべつのところに書くのでこれはこれとして読み流してほしい。



5は膜みたいなもので、実相があるのは1と2の層だから、層を行き来するだけで自由になることもできる。システムは簡単には動かないけど、1や2の層に出かけるだけで気楽になる、ふっと息がつく。具体的には散歩や料理や本を読むことや研究や空を見ることや登山や藝術に触れることや経典を学ぶことなど、やりかたは色々ある。

5のシステムの不備の指摘合戦は、それだけになると苦しい。

女性は3の層に引きずり込まれやすいので、3と5の仕組みが合ってなければ、その負荷を受けやすい。男性も『生理ちゃん』を読んでると、性欲に振り回されがちなんだなとは思うけど、それが5と合わなくないのは、5をつくってきたのが主に男性だからか。

じゃあ女性中心の社会をこっちはこっちでつくれば?と思ってみれば、あるっちゃある、と思う。というか日本は、タテマエは男社会だが、女性の方が力を持っているような、影であやつってるような場面も、明らかに尻に敷いてる場面も、ある。おそらくそれが女性が爆発して権利獲得に進まない(なぜなら既に持ってるから。欧米では主婦が家計を握るってなかったらしい)一つの理由だと思うんだけど、これはまた別のところで。

権力構造は常に一部の男性がつくってきたものでありながら、明文化されてるタテマエの5とはまた別の、言語化されない、言語化が得意じゃないほうの、おんなこどもの、庶民の、弱いほうの、自由で豊かな世界があって、それはそれであり続ける気もするのだけど、経済が苦しくなる中ではやっぱり、おしつぶされてくようなイメージはある。

つぶされそうなときには、戦わないといけない。それはずっと何食わぬ顔をし続けることって可能性もあるが。



地震は1の層にある。地球物理の問題。人が地球環境に影響を与えても与えなくても起きる。

大雨は5と1と2の場にある。人の活動が気候変動を招いて、海水温が高くなれば大雨は降りやすくなり、開発によって土地の保水力が落ちれば、流れる水の量も増える。

ウィルスは1〜3あたりにいる。ウィルスには進化を手助けしてきた、ヒトに対しても多大な功績があるのだけど、5のなかでは病気を引き起こす悪者。これも5が2を侵食することで、侵食しなければ出てこなかったやつが出てくるようになるらしい。

妊娠出産は3の層にある。老いは1〜3のあたりにある。病気は1〜5にまたがってる。2にある病気はかなり対処できるようになったけど、5が生み出す病気も増えている。

1の層から見渡せば、地球も太陽が爆発する70億年後には道連れだし、人がいてもいなくても表面の環境は変わるものだし、生物は遺伝子の乗り物に過ぎない、ってことになる。

2を見ると、人はいないほうがいいのかなって思っちゃう。そのほうが他の生き物はノビノビ生きられそうだなとか。

まあでもそう思っても仕方ない。わたしは5を生きる人なので。

ということで、どうも5が全てと思いがちなのだけど、実は1〜4の層があるので、それを無視しては良い5のかたちはつくれない。

難しいのは、5をつくりだしてる人の性質だって、人が自分でつくったものじゃなくて、全然コントロールできないってことだけど。

まるで、進んできたみたいに思ってるけど、そうなっちゃっただけなんだよなあって思う。

1は宇宙の歴史138億年か、地球の歴史46億年か、起源もよくわからない。
2は38億年。地球に生命が生じてから。
3は600万年。ヒトがチンパンジーと共通の祖先から分岐してから。
4は1万年。農耕牧畜定住をはじめてから。
5は500年くらい?大航海時代?銃病原菌鉄?そのあたりから。もしくは産業革命か。文明開化か。高度経済成長か。情報技術革命か。

5の技術で2にあるものをつくりだしたり、変化させることがきるようになったから、人は神の領域に手を出すのかとかいうけど、そんなこともなくて。冒涜どうこうじゃなくて、変なことしたら変なことがおきる、しっぺ返しはくる、淡々とした物理法則に則った原理だと思う。

神の領域は1にある。人に物理法則を生み出したり変化させることはできない。どこまでいっても宇宙の掌の上。

コントロールできないことをもっと自覚したい。

完全な平等や対称じゃなくて、すでにある個人それぞれを生かし合えたらいいよね。


参考資料:






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