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はじめての商品開発

こんにちは!
noteには2回目の掲載となりますが、今回は個人的な要素が多いため、私のアカウントにアップします。

↓1回目の掲載もぜひ読んでみてください!

今回は私が商品開発という職業を選んだきっかけについて書いてみようと思います。
「え?お前のことなんてどーでもいいから、PBのこと書いてよ!」と言われそうなのですが(あいかわらずのネガティブシンキングです。笑)、先日、「北海道で小売業のPB商品を開発している人って、ほとんどいないよね」と言われました。
同時に、「どうやってその仕事に就いたの?」とも。

たしかに・・・以前は開発と言えばメーカーの仕事でした。ところが、イオンやセブンイレブン、ニトリやカインズなど、小売業が自ら商品を開発するようになり、PBが一般的になってきました。
私もサツドラに入社するまでは東京のメーカーや商社にいたのですが、どんどん小売業が直接メーカーと交渉して開発していくようになる時代を経験しました。

北海道の小売業のチェーンストア、たくさんありますよね!
お値段以上のニトリさん、そしてホーマックさん。ですが、両社とも開発のチームは東京にいると思います。
コープさんやセコマさんとかアークスさんは北海道で開発しているでしょうし、道内にある各メーカーさんは北海道で商品開発していると思うのですが、「小売業の商品開発」という職業の人は、確かに北海道では少ないと思うのです。

東京には、たくさんの商品を開発している人たちがいます。メーカーの方も商社の方も、小売業の方も。
それぞれ、商品開発をするには、社内のステップを踏んだ上で配属されるのだと思います。
サツドラも、これからはそういう仕組みができてくると思うのですが、今はまだ明確なキャリアプランはありません。
ただ、私がどういう人なのか?とかどういうキャリアを積んだのか?がわかってくると、商品開発を目指したい!という社内外の人たちにも、サツドラのPBファンの皆様にも、「あ!こんな人が作ってるんだ。」とか「そういう経緯で開発してるのね。」ということが伝わるかな?と思い、まずは、私が商品開発をすることになったきっかけを書いてみます。

札幌から東京へ・・・そして、はじめての海外出張

私は札幌生まれ、札幌育ちです。アラフィフに片足を踏み込んでいます。
社長の富山と同級生です。大学でキャンパスが一緒だったのですが、残念ながらその当時は知り合いではありませんでした。

私は短大を卒業する!という年に、北海道拓殖銀行が経営破綻し、北海道は空前絶後の大不況へと陥りました。
今と違ってまだまだ女性の社会進出は進んでいない時代。短大卒の女子に就職先なんてほぼありません。というわけで、父のコネを使い、東京に就職しました。

新入社員で入社した会社は、家電製品を作っている小さな商社でした。
社員が全員で20人くらいしかいませんでしたので、経理以外の仕事をほとんど経験しました。
最初は事務職。毎日大量にくる発注の伝票入力と出荷作業に追われていました。
そのうちに海外から来るコンテナを各倉庫に振り分けるという業務を任せられたことから、輸入業務を行います。
そしてある時、はじめて上司の海外出張に同行します。それは台湾でした。
はじめて生産の現場を見て、

台湾流の歓迎を受け(紹興酒の乾杯攻撃!)

プロペラ機に乗ったり(当時は新幹線がなかった!)

カエルを食べたり(フライでした)

カルチャーショックを受けます。笑

その後は年に2回くらい、香港の展示会や当時の広州交易会に行って買い付けをするという上司に同行していました。
そして彼が決めた商品を日本に輸入するため、パッケージや取扱説明書を日本向けに作るという作業を行ってました。

それが楽しかったんです。
自分の作った取扱説明書通りに、本当に動くのかどうか?何度も確認したり、文章を直したり。
イラストを描いてもらったり、パッケージのレイアウトを調整したり・・・そしてそれが船に乗って日本にやってきて発売になり、店頭に並びます。
自分でも陳列しに行きました。並んでいる商品をみるのが、本当にうれしくて。

これが、私が最初に商品開発が楽しい!と思ったポイントです。
製品自体の開発はしていませんでした。いわゆるOEM発注をメーカーにしていたのです。
私の仕事はあくまでも中国や台湾っぽいなぞの日本語をきちんとした見た目に整えていたレベルです。

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↑こういう日本語の使われ方、昔は多かったんですよ。の~?本場?お気軽?つっこみどころ満載!でもおいしいお店でした。

はじめての商品開発

ある時上司と一緒に何度目かの香港の展示会に行った時のことです。
入口について、入場手続きをしている時に上司が私にポツリと言いました。

「おまえが売れる!と思う商品を2つ見つけて、自分で交渉しろ。」

え・・・?
その時の私、23歳。
正直に言うと、香港について行ったら免税店で安くお買い物できるし、おいしい飲茶食べられるし!というのが出張の95%の目的でした。海外出張に行ってるというのも、なんだかかっこいいし。笑
なので、それまでの私の役割は、上司のちょっとした通訳とか、荷物持ちと、交渉内容をメモする係だったのです。(ちなみにこの上司はバリバリの栃木弁で、英語も何も話せません。海外でも栃木なまりで乗り切ってました。)

時間はその日の午後と、翌日の丸1日。
最後の後半を交渉の時間にあてないといけませんから、見て回れるのは約8時間くらい。

必死に歩いて歩いて・・・一応広東語の通訳の方もいたのですが、だんだん通訳を待つのがめんどくさくなって、へたくそな英語で聞いて回ります。
そこで二つ、なんとか見つけたんです。

その一つがグラスファイバーのクリスマスツリーでした。
海外の展示会に行くと、クリスマスの商材だけでものすごくたくさんのアイテムが出展されています。
日本ではクリスマスにツリーを飾って、みんなで食事してというのをするのは一部の人かもしれませんが、そもそも当時のクリスマスツリーはとても高かったのです。
当時の私は初めての一人暮らし。浮かれていた私は、クリスマスツリーを買いたかったのですが、気軽に買えるような価格ではありませんでした。たしか5,000円前後はしたと思います。それだったら、ちょっといいケーキとワインを買いたいよねとなる価格です。

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少し薄暗くしたブースで、そのツリーはグラスファイバーでキラキラとしており、パッと目を引きました。
私は担当の女性に何気なく価格を聞いて、びっくりしたんです。

え???そんなに安いの?

それなら市場よりも安い価格にして、みんなが気軽にクリスマスムードにできちゃうんじゃないの?と思ったわけです。その当時は、グラスファイバーも目新しかった。

その時の商談のシーンは、今でも思い出します。
階段の途中にある、変に天井の低いブースでした。
最初は私が商談していましたが、途中から上司が交渉に入り、数量を言ったらメーカーの担当者の目が急に真剣になりました。彼らが思ってたよりも提示した数量が多かったんですね。笑

はじめてのプレゼン

日本に戻るとサンプルが届き、パッケージの作成が始まります。
そしてある日急に上司が言いました。


「明日○○の商品部長にアポ取っておいたから、おまえ一人で行ってこい」

(余談ですが・・・上司の私への言い方は、現代ではアウトですね。おまえとか。笑 ですが、当時は普通でしたし、私もそれが嫌だとは思っていませんでした。結局はその上司との信頼関係ですね!)

○○とは・・・今でももちろんあります。全国展開の家電量販店の大手チェーンストアです。
当時は家電量販店がものすごく勢いのある時代です。ヤマダとコジマとケーズの戦い・・・みたいな!
一人でサンプルを車に積み、高速に乗って向かいました。社有車はシルバーのカルディナです。
遅刻するのが嫌で、めちゃめちゃ早く会社を出たのを覚えています。笑

そこで人生初の商談とプレゼン。
めちゃめちゃ緊張しました。
ツリーを組み立てる手が震えてました。(今の私の部下たちは「信じられない!」というでしょうが、わたしにもそういう時代があったんです。)
もちろんそんなこと知らないから、プレゼン資料なんてなくて見積書だけ。

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私が言えたのは、「お店に陳列するだけでもキラキラしてきれいですよね?絶対に目に留まりますし、この値段なら売れます!」ということだけ。

当時、女性の総合職ってほとんどいなかったんです。ましてや家電メーカーの営業は男性ばかり。
私が商談に行くだけでも、ものすごく目を引きます。

商談室はガラス張りで、外から見えるようになっていました。
そこで、普段見かけない若い女がクリスマスツリーを組み立て、電源入れてキラキラとムーディーな雰囲気を作っちゃってるもんだから・・・

注目の的です。笑
たぶん当時の部長は、早く私に帰って欲しかったんだと思います。
あるいは、事前に上司が根回しをしてくれたんだと思います。(←たぶんこっち)

「わかった。各店に●個ずつ送って」と言って、あっという間に商談が決まりました。
帰り道は緊張が解けたのか、ものすごく眠くなってパーキングエリアで休んだら、1時間くらい眠ってしまって・・・あわてて帰りました。

携帯電話を持たされていない時代です。ちゃんと上司が待っててくれました。「いやーひどい渋滞でした」って言い訳しました。笑

私の初めての開発した商品の売上。2,500万円!
実は、もう一つ作った商品も採用が決まり導入されたので、たくさんボーナスもらいました!

はじめての達成感

自分で見つけた商品を開発し、自分で売りに行くというところまでを経験したことは、この時が初めての経験でしたが、とても楽しかった。
そして、はじめて自分のした仕事に対して達成感を感じることができたのです。
この成功体験から、「なんでもいいから『モノづくり』を私の仕事にしよう!」と決めました。

これを書くのにいろいろと思い出してみましたが、当時の上司は私にチャンスをくれていました。
それをたまたま成功させたというストーリーですが、これは上司が相当こっそりサポートしてくれていたと思います。
困ったことが起きたときは、必ず解決策を一緒に考えてくれました。

もう、キャリア的にも年齢的にも私がそれをする番ですね。気が付くと当時の上司の年齢を超えたかも。
課題やチャンスをあげる側になると、難しいですが頑張ります。

若手の人たちから見たら、「こんなチャンス普通ないよ!」って言われそうです。
ですが、私も自分の部下にはいつも数々の課題を与えています。その課題の達成度によって、次のステップの課題を与えます。
できたら、次のステップ。できなかったり、内容がいまいちなら、もう一度。

つまり、日々の業務や作業をどのように遂行しているかの積み重ねなんだと思うのです。
私がいたのは小さな商社でした。開発と営業は兼任で、上司と私の2人だけでやってました。ですから、たまたまそのステップを登るのが早かっただけです。
20代はがむしゃらに、与えられたことをどんどんこなしていました。
メールも携帯もない時代。笑
今思うと・・・過酷でしたね。いわゆるブラック企業だったかもしれません。
ですが、自分自身で実績を積み重ねた結果、得られたチャンスだったと思います。

というわけで、私が商品開発を始めることになったきっかけのお話でした。
サツドラにも全然関係ない話になりましたが・・・
しばらくは・・・あの頃の初心を思い出して・・・働きます!

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