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《harezora note》2.年月というもの

1年前に書き始めた文。続きを書くまでに、こんなに時間が経ってしまいました。去年、息子は、結局、この文に書いた長距離走を断念しました。でも、卒業式には、体育での努力を表彰されるほどに。先生方のご配慮だと思います。ただ、一方でその卒業式では、夫が苦情を言うような学校とのトラブルも。色々ありました。あったけれど、息子は良い中学生活を過ごさせていただいたと思っています。

(「知的障がい」のある息子のことを書いています。私の仕事のこと、これからの教育や社会、暮らしのために考えていることなども、お伝えできたらいいです。→これまでの文を「マガジン」にまとめています。)

●2015年8月。そして、2000年8月

昨日は、長男の検査のあいだ2時間ほどカフェで待っていました。

基本的な発達検査です。ですから、急な心配はないのですが、暑さが身にしみて堪える日。息子を預けた病院の待合室で見かけたのは、夕方から始まるという「24時間テレビ」(日テレ)の話題でした。

「24時間テレビ」を、15年前、自宅で生後6ヶ月の長男を抱きながら見ました。テレビをほとんど見ずに暮らしていた上の娘も一緒に。

長男の目の手術が決まり、その日を待って静かに暮らしていた時のことです。なんと、ちょうど同じ病気の子のドキュメンタリー番組が放映されました。とても情報の少ない病気だったのに。おかげで、混乱しながらも少し心の準備ができました。不思議な巡り合わせの多い子です。

それから、そのあと、実際の手術のときに、手術後の入院で同じ部屋になり、ベッドに横たわる息子をあやして可愛がってくれた、しっかりもので優しい、脳腫瘍を患う女の子のことは忘れません。彼女と、涙を一緒に流してくれたあのお母さんが、今元気だろうかと思っていいのかさえ私にはわからないけれど、とにかく彼女が好きで感謝をしています。そんな温かくて濃厚な出会いと時間も体験した夏でした。

“仕事”の意味とか救いとか

あれから15年。

私は、“息子がいる現場”ではなくて「“社会”から、教育や福祉を変えなくては」と思うようになりました。もともと、“社会”のための正義が気になる気質です。そうして、何年か、夜も寝ないで仕事し続けたり書いたりしました。「社会から変えたい」。それは、もちろん本音です。それから、仕事には色々な流れやご縁がありました。でも、一方で、自分が仕事に逃げたというか、それに没頭し忙殺されることで救われた側面もあると思っています。

障害のあるなしなどで人としての区別は全然感じないし、人はひとりひとりの個性を尊重しあって、のびのびと生きられたら幸せだと感じるし、信じています。仕事の場でもそれは確信でき、多様性を認めて活かし合う社会の実現に、ますます夢をかけるようになりました。

でも、私は、仕事がないと弱くて、あの夏のおののきそのままに、今もなお、不器用な動きの息子の後ろを歩きながら、「なぜあの元気に産まれた赤ちゃんが、、」と、涙をぬぐう状態です。

息子をとりあげてくれた助産院の先生は、すでに病気で逝きました。先生は、私たちに幸せな出産を体験させてくれ、そのあとずっと息子を心配してくれた人です。大きなマザー・テレサの写真があった診察室。

あの部屋の時間と一緒に、なんだか、私の気持ちの中には、今も、15年前のまま止まった部分が残ってしまっています。



そして、でも、目の前の彼は大きくなりました。

現在の彼の、暑さにも動じないたくましい背中が、彼が生きてきたここまでの月日を思い出させ、実感させてもくれます。

命に関わるような幾つかの分かれ道を越えて失明もせずにすんだことを始め、彼の育児では、いくつもの奇跡を体験しました。彼の命は彼自身が謳歌すべきものだと思う。そして、同時に、まるで、ほかの人たちの分の輝きも背負わせてもらっている光のように見えることもあります。神々しくも見え、共に歩くことこそが、私に与えられた尊い仕事だとも感じさせられます。

そう考えだすと、行き着くところは、どの子もどの人もどの命も尊いという思いです。育ちあい、支え合い、受け入れあい、伝え合い、それをかさねあって生かしあうことが、人の究極の仕事なのだと、思います。


●「動けない」という闇

検査を待っていた昨日、自分はカフェにいたけれど、外では、いくつか行事が重なっていました。

私は、どのひとつにも参加することができませんでした。案内をいただいたまま、参加できないことを、まともにご挨拶できていないままのものもあります。

不義理については特に、言い訳をする立場にもないのですが、このことも赤裸々に書いておこうと思います。

息子の障がいにまつわることがあると、私は、まるで頭の内側に靄がかかったような、目のまわりに見えない厚い布をまきつけたような感覚に陥ってしまいます。哀しくてやりきれなくて、しかたない気持ちにもなってしまいます。

心をこめて書きたい、ご連絡したい、お伝えしたいと思うことが、「ちゃんとした自分にならないと」と思いながら、どんどん後回しになっていきます。会議や取材、授業、面談などで、人と接して話せば、その間はエネルギーを取り戻せますが、ひとりになると、ずしんと重い気持ちが襲ってきてしまいます。

こんなことを大げさに書くと、自分の至らなさを、哀しみのドラマで正当化しようとしているみたいだなとも思います。なので、よくわからないのですが、
もしかして少し心因的な病気かもしれないとも思うし、偏り過ぎている栄養のせいとか、年齢とか何かの問題かもしれないとも思う・・・、クヨクヨしすぎる悪い癖か、時間や労力が計算できない特質か未熟かとも思う・・・。

こんなひとりよがりな「自分」の闇にとらわれながら、検査スケジュールのままに、息子を、病院に連れていった昨日でした。


●“過去”も生きている

それでも、この日参加できなかった行事は、どれも、私にとっての希望に満ちた動きとも言えます。たとえば、障がいのある子どもたちのための取り組み、健全な環境で育てられない子どもたちのための勉強会、現代社会で抜け落ちている視点を伝える豊かな育児の講座・・・。

過去のご縁があってこそ、その活動の重さや意義も、そこに関わる人々のことも知ることができました。“過去”が生きていることを、感じます。

昨夜、来し方を思う私に奇しくも連絡をくれた友人は、身近な子を亡くしていて、そのことと新しい命のことを少し話しました。

「世界中の空はつながっている」と、かつて自分が本に書いたフレーズがあります。途上国の児童労働問題を訴えるこの絵本の、読み聞かせ活動がご郷里でも展開できそうだと、京都から恩師が連絡をくれたのは一昨日の晩でした。

人の世は、過酷だけれど素敵です。過去に生きることはよくないかもしれないけれど、過去は確かに未来の礎になります。

人と一緒に、人のためにつくってきたつながりも、本も、記事も、教育も、しくみも、出会いも、会話も、共に過ごした時間も、、、。今、それら過去のものまでもが、この“今”に生きて、人や人の想いをつなぎ、現在と未来を生かしてくれていることを知る日々です。

だから、離れていても、もう手が届かなくても、どんなに孤独になっても、どの生もがいつか終わる宿命であっても、世界のどこかはつながっていて、時間もつながっていると思います。

辛いことは、本当にいっぱいあります。

でも、過去の事実は変えられなくても、未来に送るときに、魔法のように輝くものに変えることができるとも考えるようになりました。

その魔法のようなものをかけられるのが、“今”なのだとも思います。それが、私の育児や仕事という行為のイメージのひとつです。


●過去は変えられない。けれど、刻み直せる

今日いま必要な声もあげられない、言葉も紡ぎきれない、ご挨拶もできていない・・・どこまでどなたまでに何が届いていないのか整理もしきれないような、頭がぼんやりしてしまう自分がいる一方で、それでも、ともに生きた過去への思いも、強く抱きます。

できれば相手とともに、できなければ自分だけでも、いつも何度も良い形で“今”に刻み直して、未来に生かしていきたいと、“出会い”に対して思うようにもなりました。

自分たちの過去の何かが将来にむけて良い形で残ってくれたらいい、それが誇りだとも思ったりもします。そんな出会い、そんなつながりの中での、大きな意味での仕事ができたらいいと、夢見ます。

この年月のなかで、私は、結局、強くも大きくもなれず、波風なく暮らしてもいけないままで、身体も衰えてきたなと思うばかりです。

この春、長男が進学していくつか調整が必要になり、続くアクシデントを前に、私は、自分の中に、気丈さのかけらを探し続けるのがやっとでした。

同時にほかのことでも哀しく辛いことが重なって、息も絶え絶えでなんとか育児だけを・・・。子どもとかわってあげられることできず、でも、母という大役を果たす人間はこんな私で、私しかいなくて、彼や彼の姉弟たちの人生に申し訳なくて、怖くて孤独な絶望の中にいました。

実際は、自分たち親子を見守り声をかけ支えてくれた、色々な方々がいるのですが、あの時は、自分が救われるなどまるで夢のように感じていたと思います。時間がかかりましたが、そのような方々や、近くにい続けてくれた身内や息子本人の存在が、じんわりと私の心に、力を取り戻させてくれました。

そんな風になんとかやっと時を過ごすことで乗り切りながら、息子は、新しい病院に通院し始め、そこでの検査を、昨日受けたところです。

2時間もの検査でしたが、先生に見送られ、晴ればれと息子は帰ってきました。

彼は、学校の送迎がしばらく必要だということになり、今週も、私が部活に送っては、迎えにいっています。夏休み後半、久しぶりの制服姿が立派で、それで私は、彼の後ろ姿を見ながら、ちょっと泣けたり、かけがえなく思ったりしていたのでした。本人は、けろりとしたものなのですが。


●多様なあり方、生き方、働き方、そして、新しい教育

実は、この春から父の体調が悪くなり、これまでのように育児を私の両親に頼ることが難しくなっています。登下校時の時間のコミュニケーションも大切ですし、一緒に過ごせば楽しいし、当面の送り迎えは、基本的に私がしようと思います。

そのような中、改めて身をもって感じ、考えているのは、やはり、多様な働き方や暮らし方、あり方のことです。

それから、子どもや家族、身近な人とのコミュニケーションやパートナーシップの問題。私にとっては、この問題が自分に負荷をかけていなかったら、この春も、どんなに不安や心配や迷いがあっても、あのような孤独や絶望にまでは陥らなかったと思っています。

だから、教育を、と思います。障がいをもつ子どもたちの教育はもちろん、一般の教育も、いま多様性を認め合い実現する力を育てる教育が必要で、そこにコミュニケーションの力は不可欠です。愛を具体的に実現できる人に育ってほしい、社会が築かれてほしい、と思います。

自分のできることをできる形でするばかりですが、今後、改めて、これらの問題に、アプローチしていこうと思っています。


●夢をみていいのだと思います

ハンディキャップってなんだろう。そう自分に問いつづけています。息子のことだけではなくて、社会のハンディキャップ。自分のハンディキャップです。欧米では、もう、英語の「ハンディキャップ」にあたる言葉を使わなくなっているとも聞きました。「障害」という日本語には、なおさら遅れた意識を感じます。

自由に心やすらぐ暮らしができない不自由感やせつなさに、つぶされてしまいそうにもなるけれど、私は、やっぱりあきらめないで夢を見たいです。自分たちの不自由感や夢に、社会を良くするヒントがあるかもしれないとも、思いたいです。

息子も、我が家のほかの子どもたちも、每日の育ちではなく、将来をリアルに考える歳になりました。思春期に入って、親の関わり方も変わりますが、模索しながら、長男も含め3人それぞれのこれからのことを楽しみだと語り合って暮らしたいです。

夢をみることは、人間が授かったわざなのだと、私は思います。

いつか、いま自分がいま夢見ているような暮らしがしたいです。そして、今の暮らしは、よく考えてみれば、以前私や誰かが夢見た暮らしに似ているんだと思います。

うまくできないことは、まだまだたくさんありますが、みながいきいきできる社会にむけて頑張って仕事をして、母業も堪能して、そして、遠近の心通う人たちと、世界の奇跡的な美しさを感じあい、伝えあえたらいいです・・そんなことを思って、今日、今の気持ちを書きました。

2015年の夏が、過ぎていこうとしています。


(今回の文章はこれで全てです。シリーズは、次回につづきます・・)


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