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“声”が、聞こえなくても・・・

専門書でないものばかりで文は軽いですが、先週末の2、3日で、一気に10冊ちょっとの本を読んでみました。

●活字と理性

コミュニケーションの問題に対して、社会問題として気になることがあり、友人が心配な状態になっており、そして、私自身も、仕事でとまどうケースに出会ったり、個人的なことでもいくつか少し追い詰められた気持ちにもなったりしていて・・・、それで、仕事に出た勢いで、書店や図書館に行き、本を集めました。

一般的な話をざっくりと知りたかったのですが、私自身の地平も確かめたくて、大学時代に読んだものや、何年か前に友人がくれた本なども読みました。

本の内容に示唆される様々はシビアでしたが、多角的にざくざくと活字を多く読んだことで、自分のなかで理性が起き上がり、気持ちの沈みはやや楽に。言葉や論理のもつ力を、改めて感じます。

●個人のせい

文化の違い、認識の違い、感じ方の違い・・・行き詰まり、立ちゆかないコミュニケーションには、色々な背景があると思います。ボタンを掛け違ったかのように、ほんのちょっとの気持ちのずれや、タイミングの悪さが重なるような時のいたずらもあるかもしれないです。

そういうものは、一般的には、当人たちの人間性や努力や誠意、そして愛情のようなものの力で解消して、乗り越えて、人は生きているのだと思います。また、場合によっては、相手や、相手との関係を見限ることもあったりします。

でも、私は、最近、感覚的にそれをするばかりでなく、整理された知識や理論を、みなで、もっと意識してもいいのではないかと思うようになりました。そして、個人が背負ったり、個人のせいにしたりするのをやめる視点も大事なのではないかということを、考えています。

責任のがれをするのは違うと思いますが、理性的な方法で、コミュニケーションから生じる負担を軽減したり、前向きに解消しようとしたりすることで、全体的に、もう少し良い関係を築きあげていくことができるのではないかと思うのです。

それが、社会全体の標準の形になったら、それだけで変わること、格段によくなること、幸せになる人が増えるのではないかと・・・。

●負の連鎖

私が気になっている問題は、相手のせいにしあったり、自分で自分を責めたりして、追いつめられたり、追いつめあったりするうちに、気持ちや関係が混乱し、負の連鎖かとも思うような、新しい問題が、雪だるま式に生じていくことです。

たとえば、不適切なコミュニケーションをしているとわかっていても、うまく改善できず、関係がこじれていく場合があります。また、自分が人を傷つけたり困らせたりしている自覚がない人もいるし、逆にとても傷つきやすい人もいて、それから、自覚どころか、日常の意識や様々な認識そのものが朦朧と曖昧なケースも。

コミュニケーションが成り立たないことや、きつい対応をされることは、辛いことです。でも、そこに「なんていう人なのだろう」「とんでもない人だ」などと相手の人格を疑ったり、「なんとかわかって」という思いが生じたりすると問題がさらに進んでいき、なんだか危険だと思います。

思考も感情もコミュニケーションもますます空回りし、お互いの関係も個人の状態もひどくなっていく・・・いじめや虐待、モラハラのようなことが起きてしまったり、うつや、そして自殺まで生じてしまったりと、当人や周囲の人の社会生活や人生そのものへの影響がでていく恐れも・・・。

だから、相手のことも自分のことも、どこまでも人格や誠意、好意、努力の問題だとするのではなく、もう少しシンプルに、機械的に状況を捉える方がよい場合もあるのではないか、専門的な視点やケアを取り入れるのもいいのでは・・・と思うのです。

●知識やスキル

今回は、病気や障がいというような視点と、純粋なコミュニケーション技術という視点から、実例や知恵を見たいと思い、10冊あまりの新書や実用書、インターネット上の資料を読みました。

世間には、なんでも「病気」や「障がい」にしすぎると心配する声もあり、私もそれは危惧します。一方で、コミュニケーションまつわる不具合を、個人の人格の問題でなく、器械的、機能的に起きる現象だと思えば、個人を尊重したまま、わかりやすく理性的に、状況を理解したり、対処を考えたりできるとも思います。

たとえば、診断があればなおさらですが、診断されるほどでなくても、相手や自分の、コミュニケーションにまつわる癖や個性や、もしかしたら、機能の弱いところがあるかもしれない部分やケースを知っておき、その対処を、知っていたらいいのではないかと思います。もちろん、強みや得意なことも。

また、自分の怒りをコントロールしたり、他責の意識、自己否定の心の癖を修正していくなど、自分の心情を変えていく技術も有効だと思います。相手とのやりとりや距離感などで、人が心地よくいられる知識や方法を身につけておくのもよいとも思います。

●社会の良識として

今、社会には、そのようなコミュニケーションスキルを大切と考えている人が増えている気がします。一方、無頓着な人も、不遇のコミュニケーションを、そういうものだとあきらめている人も、たくさんいるのを感じます。

私には、そのあきらめの態度の一部分が(全部じゃないです)、「女はこういうものなの」などとお説教をくださったりしてきた、少し前の女性たちに似て見えるときもあります。その時はそういう気持ちのおさめ方や、その形での幸せがあったんだと思う。でも、そういう言葉は、本当にだんだん聞かなくなりました。その狭間の苦労は、まだたくさんあるとも感じているけれど。

だから、それに似て、「コミュニケーションをあきらめる」というのは、打開できる通念じゃないかと思うのです。

そして、興味のある個人がコミュニケーションスキルを磨くのもいいけれど、私は、社会全体の良識として、意識やスキルがあがるといいなと思います。というか、その必要を感じます。だから、これからは、そういう教育を受けて、子どもたちが、それを教養のようなものとして身につけて育って欲しいです。自分たち大人は、とりあえず、体当たりで探っていくんだろうと思いながら。

教育を受けても、それを理想的に体現するのはそう簡単ではないと思うけれど、まず、基本の共通知識として知っておけたらいいのになと思います。

また、自分でもそのことはずっと考えていて、コミュニケーションスキルの要素を教育コンテンツに取り入れていくことを、どうにかして進められたらいいなと思っています。

●変えられること

似て非なるものとして・・・、このような知識やスキルの伝授なしに、「他者は変えることができない」「困った人にも感謝する」「ダメな人とつきあわない」などという言葉が、何かの思想か教えのような形で独り歩きしてしまい、悲観的になっている人を余計に追い詰めてしまう構図も、見かける気がします。

コミュニケーションのスキルなんて・・・、「ダメな人」とか「困った人だけどありがとう」とか、「人は変えられない」とか、そんなこと言わないで、自分も相手も一緒に変わっていけたら一番ステキだと、私は思います。そして、変わって行くための手助けになるものが、ほしいなと、考えているわけです。

それから、コミュニケーションが辛くても、見限ることができる相手と、そうでない相手がいると思う。物理的に離れられない相手なら、一緒にいながらも上手に見限る部分は見限って距離をおくというようなこともできるけれど、本当は、人に対して、そんな気持ち、抱かない方が、本人が幸せなんじゃないでしょうか。

●線の向こう

過酷なコミュニケーションを続けなければいけない場面って・・・、現にあると思います。

今回読んだ『私の声が聞こえますか』(マルコム・ゴールドスミス)という認知症の本の前書きに

まるで壊れた機械のように、認知症がある人を扱おうとしている、と言っても過言ではない

という表現があり、心に残りました。

また、障がいや病気関連の本を読んで感じ続けたのは、差別の気持ちがない、頭がさがるような取り組みをされてきた先生方の文にさえ、障がいや病名の症状や、それをもつ人々を、どこか一線ひいた向こうのもののように書き記している(ように感じる)部分が、ほんのひとかけら、不意に表れるということです。

立場の違いなのだと思います。当事者はもちろん、その人たちを、何よりもまず、自分が愛して、人として心の通じる関係を持ちたい相手だと考えている人にとっては、「症状」と「その症状をもつ人」は、イコールで書かれたり、その人や自分を線の向こうの人とされると、違和感をもつのだと思います(自分自身は、イコールで言ったり考えたりしてしまうことがあっても、人に言われると違うと思うのでしょうね・・・)。

「困っている」としたら、その「症状」に対してであって、その「人」に対してではないということです。

●抱える

今の私には、認知症にまつわる哀しみも悩みも心配もあります。

そして、先ほどの引用文の「認知症」という単語を、別の病気や障がいの名に変えることができるということも、また、考えます。

たとえば、息子の「知的障がい」。軽度と診断された彼が「どこまでわかるのか、わかってくれるのか、わかるようになるのか」、そして、私が彼に対して「どれだけ、わかってほしいと自分が思ってしまうのか」。これは、たぶんこのまま生涯私が抱いていく何かだと思っています。

そんな心の葛藤を望んでいるわけではないけれど、彼を、あきらめることはできない・・・。でも、だけど、そう感じながら、思いもよらないことが起きて混乱したり、私がいっぱいいっぱいになったりするときもあって、そんな時、ひとりで背負いすぎないことや、辛くても私がするべきこと、考えることなどを、息子の病院や学校の先生方、福祉関係の方々が、整理した言葉で伝えてくれます。

そういうときは、私の思考や感情もぱたっと動かなくなり、世界の色が薄く見えたり音が遠く聞こえたりしますが、そんな中でも、いただいたその言葉を頼りに、気持ちや暮らしを整えなおして、それから、もう一度、自分の頭で咀嚼していく感じです。咀嚼に何ヶ月も何年もかかることや、咀嚼しようと向き合うまでに時間が必要な時も多くて、母としては、理想的なことが全てできているわけでもなく・・・

なので、えらそうなことは言えないのですが、それでも、息子の何かを、冷静に見させてもらうのはいいけれど、あきらめるような言葉や姿勢には、どうしても同調できなくて、そのことで混乱する思考や気持ちや、人とのやりとりがあることを、今回、本を読んで感じました。

●線引きは・・・?

息子のことはやはり息子なので、なんというか無条件に愛情を感じます。でも、やっぱり「これは無理なんだ」とわかってあげることも大事で、そして、「できるようになるかもしれない」と信じてあげることも大事なのは経験から知っていて、その、ちょうどいい加減の線引きのことを考えます。

認知症の場合も、介護スタッフさんでも対応に難しさを感じるのに、身内として、過去の状態と変わって症状が進んでいくばかりである現実ともむきあわされる。そのなかで、何に対してわりきるのか、何の思いや視点を抱き続けたらいいのか・・・。言動の、どこまでが「症状」で、どこまでがその人なのか、自分なのか・・・。

それから、物理的に縁を切ってもいいかもしれない、ほかの人との関係は・・・?「潮時」はあるのだろうか。

たとえば、病的な関係や心理状態になってしまっているときの措置として、関係を断ち切ったり、距離をおくことをしたりした方がいい場合が、あると思います。でも、渦中の人間には、なかなかそのライン引きはできません。努力する価値のある関係なのか、そうでないのか・・・。

どんなにコミュニケーションで辛い目にあって、距離をおいた方がいいかもしれなくても、それでも、相手に対してそれを「したくない」と感じる関係もあると思う。

アスペルガー症候群のパートナーが陥るカサンドラ症候群というものがあります。その疑いで苦しんでいる友人は、パートナーとのコミュニケーションをすごくつらく語るけれど、それでも、彼を愛している・・・。

そして、彼も彼女を愛していて、だけど、彼は、共感や理解が少し難しくて彼女を適切に癒やすことがしきれない。なのに、彼女が苦しんでいるというその事実には、人一倍感じやすい心で傷ついてしまって、やっぱり辛そう。でも、時々とても幸せそうな日もある。子育てもしながら、愛し合い傷つき合う彼らが、本当はどうしたらいいのかが、何年経っても私にはわかりません。でも、彼らや、その子どもたちを、見ていたいなとも思います。

●ということで・・・

今回、本を読みながら、涙を何度もぬぐいました。色々な人が思い浮かび、人はひとりひとりがとても大切なんだと思い、大変だよねと何人かのことを考えました。私の知らないところで、たくさんの人が色々な思いやとりくみをしているのだとも知りました。

自分の仕事での混乱も、意味がなんだかわかった気がしました。そして、個人的には、自分が人をつらくしたかもしれないことや、自分がつらかったことを改めて思い出しました。それから、まだまだ解決はできていないことだらけで、でも、現実のひとつひとつに対処していくことで、道が拓け、社会も自分たちも変えられるのだと、著者の方々や関わる方々のお仕事や活動、実践から学んだ。そして、本やインターネット・・・、情報が一般の人に、こうして届くことは、ありがたい、大切なことなんだと、読者として思いました。

・・・と、こうして書くと、いつも自分が言っているようなことばかりで・・^^;。新しい発見はないようなのですが、自分なりに、ちょっと整理ができました。

それから・・・今回、自分もかなりメンタルが辛くなり逃げるようにすがるようにもして読んだ本達ですが、それらの案件すべてに、ほんの少し自分で前向きなアプローチをしてみようと、・・・それを、ここで宣言しておこうと思います。私が動くことではないと思うことばかりだったけれど、どの位置からでも何かはできるんだなと思いました。また、まずは、ほんの少しでもいいんだなと思いました。



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