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金一族

自由記事のお題が決まらず悩んでいたらフト頭に北朝鮮が浮かんだので今回は北朝鮮を支配する金一族について書かせていただきます。3人の最高指導者の人生をまとめたものです。結構長いですが興味がある方は読んでみてください。

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金日成(1912.4.15〜1994.7.8)

金日成(キム・イルソン)は朝鮮の革命家、独立運動家であり北朝鮮の政治家、軍人である。第二次世界大戦後、朝鮮半島北部に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を建国した。以後、同国で首相、国家主席を務めた。また朝鮮労働党の党首に結党以来一貫して就いていた。称号は朝鮮民主主義人民共和国大元帥、朝鮮民主主義人民共和国。1998年に改定された憲法では、《永遠の主席》とされ主席制度は事実上廃止された。

幼少期

1912年4月15日金ヒョンジクの長男として平壌西方にある万景台で生まれる。抗日派であったためか、ヒョンジクは1919年の三・一独立運動の翌年、イルソンを連れて南満洲に移住した。1926年、軍事学校の華成義塾に入学するも短期間で退学した。父が亡くなった後は中国吉林省にある学校に通っていたが、そこの共産主義者の教師の影響を受け共産主義の青年学生運動に参加したことで学校を退学した。

抗日パルチザン活動

金日成が最初に参加した抗日武装集団は在南満洲の朝鮮人民派・朝鮮革命軍のうちの左派の一団だった。1937年6月、金日成部隊である東北抗日聯軍第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道(現在の北朝鮮の咸鏡南道と江原道の一部、両江道を合わせた場所である)の町に夜襲をかけた《普天堡の戦い》を契機に金日成の名は知られるようになっていった。しかし日本側の帰順工作や掃討作戦により東北抗日聯軍は壊滅状態に陥り、金日成は上層部の許可がないまま独自の判断で僅かな部下と共にソビエト連邦に逃れた。イルソン達はソ連国境警備隊に見つかり一時拘束される。その後金日成部隊はソ連極東戦線傘下の第88特別旅団に中国人残存部隊と共に編入され、イルソンは第一大隊長になった。彼らは解放後に北朝鮮政府の中核となる。

北朝鮮の指導者へ

1945年8月にソ連軍が朝鮮半島の北緯38度線以北を占領し、金日成は9月にウラジオストクからソ連の軍艦で元山港に上陸、帰国を果たした。10月14日に平壌で開催された《ソ連解放軍歓迎平壌市民大会》でイルソンは初めて朝鮮民衆の前に姿を現した。1946年2月8日に暫定統治機関として北朝鮮臨時人民委員会が成立し金日成が委員長に就任した。1946年8月末には北朝鮮労働党を創設し、イルソンは副委員長に就任した。このように金日成はソ連の支援を受けて指導者になったが、当時は金日成派は国内の共産主義者の中では少数派であった。

朝鮮戦争

1950年6月25日、北朝鮮軍は38度線を超えて南側に侵攻し朝鮮戦争が始まった。当初は北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに思われたが、ソウル会戦で猛攻を続けていたはずの北朝鮮軍が三日間進軍を停止するなど謎な行動を取り、この時間を使って総崩れとなっていた韓国軍は体制を立て直した。9月15日、アメリカ軍が仁川上陸作戦を開始すると、北朝鮮軍は敗走を重ねるようになった。金日成は10月11日に平壌を脱出し、中華人民共和国へ亡命した。10月25日に中国が中国人民志願軍を派遣した事によりアメリカ軍を押し戻し、戦局は38度線付近で膠着状態となり、休戦交渉が本格化しだした。1953年2月7日、朝鮮戦争における指揮・功績が認められ、金日成は朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与された。6月には休戦が成立し、平壌へ帰還した。

独裁体制

金日成は1950年代に社会主義体制を築き、1960年代末までには金日成派独裁体制を完成させた。1972年12月27日に朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が公布され、国家元首として国家主席の地位が新設されると、翌日、国家主席に就任した。新憲法では国家主席に権力が集中する形となっており、イルソンは党、国家、軍の最高権力を掌握した。

国のトップとして

1972年4月から翌年の3月までに49か国と国交を結んだ。1985年12月には核拡散防止条約に加盟。1987年11月29日に起きた《大韓航空爆破事件》は犯人の一人とされる金賢姫の自白によって北朝鮮による犯行とされ、世界から批判が強まった。1992年1月30日にイルソンは国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印したが、翌年3月に核拡散防止条約を脱退し、1994年3月にはIAEAを脱退、査察も拒否したため核開発疑惑が強まった。これに危機感を覚えたアメリカは同年6月カーター元大統領を特使として派遣した。カーターとの会談で金日成は韓国大統領金泳三との南北首脳会談の提案を受け入れた。

死去

金日成は1994年7月8日午前2時に死去した。葬儀は金正日主導のもと国葬として7月11日に平壌で行われた。その後遺体はエンバーミングが施され錦繡山太陽殿に安置された。

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金正日(1941.2.16〜2011.12.17)

金正日(キム・ジョンイル)は北朝鮮の政治家、軍人であり、第二代最高指導者。北朝鮮を建国した金日成の長男。以後、死去するまで朝鮮労働党中央委員会総書記、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長、朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員を務めた。称号は朝鮮民主主義人民共和国元帥、朝鮮民主主義人民共和国英雄。死後に朝鮮民主主義人民共和国大元帥の称号を贈られた。

出生

金正日は1941年2月16日に父親が逃亡先として滞在していたソ連の極東地方に生まれたとされている。ただし、北朝鮮側の発表では金日成・金正日を神格化する意図から金正日の生まれ年を金日成の生まれ年である1912年と30年周期で合わせるために1942年2月16日誕生とし、生誕地も白頭山(革命の聖地とみなされている)としている。1982年には中央人民委員会により《白頭山密営にて誕生》という公式発表が行われた。

幼少・青年期

1945年11月25日、母、弟と共に朝鮮に帰国した。1946年に妹・金敬姫が生まれたが、1947年に弟、1949年に母を亡くしている。朝鮮戦争開始後の1950年9月中旬、北朝鮮軍の形勢が不利になると、曽祖父母、妹と共に平壌から平安北道長江郡に疎開するが、国連軍が北上し中朝国境付近に迫ると、1950年11月2日に中華人民共和国に脱出し、父の家族などと共に吉林市で生活をおくった。1952年か1953年に北朝鮮に帰国したとされている。帰国後は平壌第一初級中学校、南山高級中学校を卒業後、1960年9月1日に金日成総合大学経済学部政治経済学科に入学。在学中の1961年7月22日に朝鮮労働党に入党。1964年3月30日に大学を卒業し、党中央委員会に勤務し、6月には党組織指導部の指導員となる。その後も党中央委員会の課長、部長などを歴任し、1969年9月に党組織指導部部長に就任した。

次期最高指導者として

1972年10月に中央委員になり、1973年9月に党中央委員会書記、1974年2月13日に政治委員会委員になり、翌日の2月14日に金日成の後継者として推戴された。1980年10月に党中央委員会政治局常務委員、中央委員会書記、中央軍事委員会委員に就任し、地位を頑固なものとした。この時初めてジョンイルは公式に国民の前に姿を現した。1982年2月には最高人民会議代議員にも選出された。1990年5月に国防委員会第一副委員長に選出され、軍を掌握し始める。1993年4月9日、金正日は国防委員会委員長になり、これによりジョンイルは軍の統帥権を掌握する。

最高指導者として

1994年7月8日、金日成主席が死去し、この日より金正日は最高指導者となった。1997年10月には朝鮮労働党中央委員会総書記に就任した。2000年5月に就任後初となる外遊で中国を訪れて初めて国際社会に姿を現し、中国共産党総書記の江沢民と南北会談に向けた事前協議をしたとされている。2000年に南北会談を行ってからは2001年にかけてイタリア、イギリス、カナダなどの国と国交を樹立した。2002年9月、小泉純一郎首相との日朝会談が行われ、金正日は日本人13人を拉致した事を認め、口頭で謝罪した。また、国交正常化へ努力する事を記した《日朝平壌宣言》をはっぴょうした。2006年、2009年には核実験を実施した。2011年に入ると、ジョンイルは友好国との外交に力を入れ、中国とロシアを訪問した。

死去

2011年12月17日午前8時30分に心筋梗塞のため死亡したとされている。死後2012年2月14日に朝鮮民主主義人民共和国大元帥の称号が贈られ、同年4月11日に《永遠の総書記》翌日の4月12日には《永遠の国防委員長》と位置づけられた。

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       (韓国大統領府)

金正恩(1984年?1月8日〜)

金正恩(キム・ジョンウン)は北朝鮮の軍人、政治家であり、第3代最高指導者である。金正日総書記の三男。現在は朝鮮労働党委員長、国務委員会委員長、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長、朝鮮労働党政治局常務委員、国家武力最高司令官を務める。称号は朝鮮民主主義人民共和国元帥。

幼少・青年期

金正恩は北朝鮮の第2代最高指導者の金正日の三男として生まれた。母は元在日朝鮮人の高容姫。金正男、金正哲は異母兄にあたる。1996年9月よりスイスに留学し、ベルンの国際学校で偽名を使いながら教育を受けていた。その後公立小学校でドイツ語を学んだ。1998年には公立中学校に編入した。2000年8月、北朝鮮に帰国した。留学の経験から母国語の朝鮮語の他に英語、中国語、ロシア語、ドイツ語、フランス語が話せるという報道もある。帰国後は金日成総合大学で情報工学、金日成軍事総合大学で砲兵指揮を専攻したとされている。

後継者指名

2010年9月27日、金正日は金正恩ら6人を10月10日付けで朝鮮人民軍の大将に昇格させると発表した。そして9月28日には党中央委員、党中央軍事委員会副委員長に就任した。これにより金正恩の後継者としての地位を確定したとされている。

権力の掌握

2011年12月17日、父である金正日が死去。12月20日に行われた父の国葬では軍・党・政府の高官を率いて金正日の霊柩車に付き従い、指導者として支持を得ている事が強調された。12月29日、最高人民会議常任委員長の金永南が金正恩の権力継承を公式に宣言した。12月30日に朝鮮人民軍最高司令官に就任。2012年4月13日に行われた最高人民会議によって国防委員長に代わって新設された《国防委員会第一委員長》に就任し、党・軍・国家の三権を掌握した。同年7月17日には朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与された。

最高指導者として

最高指導者に就任して以降、軍を積極的に視察している。2010年11月の延坪島砲撃事件は金正恩が指揮していた事が明らかになっている。2012年8月3日、金正恩は初の海外政府要人との会談を中国共産党中央対外連絡部長官の王家瑞と行った。2016年1月には4度目とされる核実験を実施。水素爆弾の実験に成功したと発表した。同年9月には5度目となる核実験を実施。2017年2月13日、異母兄である金正男がマレーシアで暗殺される。韓国国家情報院によると、これは金正恩が5年以上前に指示していた事が実行された事件であるとしている。2018年3月31日、極秘訪朝したポンペオCIA長官(当時)と会談した。4月27日に北朝鮮の最高指導者として初めて板門店の軍事境界線を超えて韓国を訪問した。11年ぶりの南北首脳会談を行い、《板門店宣言》を出した。6月12日にはシンガポールのセントーサ島でトランプ米大統領と史上初の米朝首脳会談を行い、米朝国交正常化、朝鮮半島の非核化を目指すとした《米朝共同声明》に署名した。2019年6月30日、史上初めて米北南首脳の三者会談を行った。

       おわり

参考文献

https://ja.wikipedia/wiki/金正日

https://ja.wikipedia/wiki/金正恩