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「徘徊と笑うなかれ」――認知症の母が教えてくれたこと

2019年6月1日、私は『致知』の取材のため、横浜(神奈川県)で行われた詩人・藤川幸之助さんの講演会に参加していた。藤川さんは、二十数年に及ぶ認知症の母の介護体験から多くの詩を生み出してきた詩人だ。

講演会では、認知症が進行していく母が、家族や自分のことを忘れまいと手帳に何度も皆の名前を書き記していたというエピソードや、心臓に持病を抱えながらも「俺がお母さんを幸せにしようと思う」と、自らの命を削りながら最期まで献身的な介護を続けた父親の愛。そして、父親の遺言によって、思いがけず介護を託された藤川さんの「いっそのこと母が死んでしまえばいいとさえ思った」という、生々しい苦悩と葛藤の日々が、当時の写真と美しい詩の朗読と共に語られた。

次第に、会場内のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。皆、自身の肉親や大事な人の介護体験を思い出しているのだろうか。藤川さんの詩を聴きながら、私もまた認知症で亡くなった祖父のことを思い出していた。
祖父は私が大学生の頃に認知症になり、数年のうちに過去も家族のこともすっかり忘れ去ってしまった。

施設に入った祖父は、他の認知症の方とまるで幼児に返ったようにはしゃいでいた。祖父は長男の私を特に可愛がってくれ、地元の学校長や教育関係の要職を歴任した人だっただけに、私には大変な衝撃であった。

しかし、当時の私にとって、すべての記憶を失ったように見える祖父は、もはや自分の知っている祖父ではなかった。祖父は認知症という病気に脳や精神を侵され、もうこの世からいなくなってしまったのだ――そう結論した私は、祖父の元を訪れる機会はめっきり少なくなり、自分も介護や身の回りの世話を手伝おうという気持ちも全くなかった。

半ば強制的に父親に連れられ、海辺にある施設を最後に訪れた時には、祖父は体中をチューブで繋がれ、体は硬直して動かず、こちらの声掛けにも何の反応も示さない状態だった。認知症とはなんと残酷な病気であろうかと絶句し、私にはただただ祖父を見つめていること以外何もできなかった。

祖父は十年の闘病の後、私が結婚式を挙げた一か月後に亡くなったのだが、親戚の人が「広太郎君の結婚式を見届けて、おじいさんは亡くなったんだ」と言ってくれた。

藤川さんは講演の中で、「たとえ認知症になり、言葉と記憶を失ってしまった母親も、いまを必死に生きている」「介護を通じて、母は私の中から人を思いやる心や愛する心を引き出してくれていたのかもしれない。だから、認知症となって言葉や記憶を失ってしまったとしても、人は皆そこにただ生きているだけで、存在しているだけで大きな意味を持っている」と、実感を込めておっしゃっていた。 

その藤川さんの言葉が自分自身の祖父の体験と重なり、私もまわりの人たちと同様に涙を抑えることができなかった。認知症と闘いながら必死に生きていたであろう祖父に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。実際、祖父の施設を訪ねた時に不思議なことがあったことをふと思い返した。記憶を失くしたはずの祖父が突然正気に返り、「あとは頼むぞ」といって指にはめていた金の指輪を私に渡してきたのだ。祖父の指輪はいまも大事に持っている。

これなどは、まさに藤川さんの体験に通じることだと思った。たとえ、認知症になっても人は確かにいまを必死に生きているのだ。藤川さんの原稿は、他の誰でもなく、自分が書かなくてはならないと固く誓った瞬間でもあった。

藤川さんの原稿は、『致知』2019年11月号「語らざれば愁(うれい)なきに似たり」に掲載されている。そして、この3月末には、藤川さんのこれまでの詩人としての総決算であり、初の自選詩集である『支える側が支えられ 生かされていく』が弊社から刊行される。 

詩集を一読し、これはただの介護体験を綴ったものではないと感じた。認知症の母の介護体験を通じて、人が生きると何か、死とは何か、悩み苦しみとは何か、人を愛するとは何かという根本的な問いを読む者に鋭く投げかけ、またその答えを示してくれる人生の道標になる詩集だと私は感じた。

この詩集が、私の心を癒し、励ましてくれたように、介護に悩む人だけでなく、人生を真剣に生きるすべての人の生きる力になることを願ってやまない。 
               致知出版社 致知編集部・浅倉広太郎

『自選 藤川幸之助詩集
「支える側が 支えられ 生かされていく」』掲載詩

「徘徊と笑うなかれ」

徘徊と笑うなかれ
母さん、あなたの中で
あなたの世界が広がっている
あの思い出がこの今になって
あの日のあの夕日の道が
今日この足下の道になって
あなたはその思い出の中を
延々と歩いている
手をつないでいる私は
父さんですか
幼い頃の私ですか
それとも私の知らない恋人ですか
「妄想と言うなかれ」

母さん、あなたの中で
あなたの時間が流れている
過去と今とが混ざり合って
あの日のあの若いあなたが
今日ここに凜々しく立って
あなたはその思い出の中で
愛おしそうに人形を抱いている
抱いているのは
兄ですか
私ですか
それとも幼くして死んだ姉ですか
徘徊と笑うなかれ
妄想と言うなかれ
あなたの心がこの今を感じている
「道」

何度も転んだ。
何度も立ち上がった。
そのたびごとに地団駄踏んで
踏み固めてきた私の道は
あの山を越え
私はまだ見たこともない私に出会い
あの海に行き着き
人の悲しみの深さを知った

顔に当たる風の強さで感じるのだ。
血のにじむ膝の痛みで感じるのだ。
立ち上がり歩み出す私の一歩が
転ぶごとに力強く大きくなっていることを。
あの悲しみから踏み出したその一歩が
この喜びへつながっていることを。

私をつまずかせた石ころの中に
転んだ私の心の中に
私の明るい未来は潜んでいる。
何度も何度も立ち上がり
大粒の汗をしみ込ませて
道が私の道になっていく。