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雑記④


いま星野源さんの「そして生活はつづく」というエッセイを読んでいる。まだ途中なのだけど。


その中に収録されている「生活はつづく」というパートがある。これを読んで最近のわたしの鬱々とした気持ちの正体と、その正体とやらと付き合っていく方法を教えてもらった気がした。おこがましいのは100も承知で、星野さんがこのパートで語る自分という存在とわたし、すごいリンクしていたのです。


わたしは昔から、生活が嫌いだ。
大人になるにつれて、どんどん嫌いになる。生活が嫌いとは、日常の些細なこと、生きるために必要なことを大切にできないということだ。朝起きて顔を洗ってスキンケアするのだってめんどくさいし(今はさすがにするけど)、掃除だって洗濯だって皿洗いだって、やっていかなきゃ死んでしまう!というところまで溜めてしまう。ご飯だってまともに作らないし、作ったとしても到底料理とはいえないものだ。お風呂も入るけど好きじゃないし、カーテンを開けるのすらめんどくさいと感じることもある。

反対に、エンターテインメントの世界は大好きだ。大好きだし、これ以上おもしろいものはないと思っている。本を読むことも映画を観ることも芝居を観ることも音楽を聴くことも漫画を読むこともアニメを観ることも、全部楽しくて仕方がない。生活を犠牲にしてでもこれらに傾倒していたい。でも、そういうわけにもいかないもので、エンターテインメントの世界には終わりがある。(つまりは本を読みおわったときや映画を観終わったとき)これが寂しくて寂しくて、現実とのギャップが大きすぎて、辛いのだ。どれくらい辛いのかというと、普通に胸が苦しくなるし、自分のちっぽけさが際立つし、そのことで一晩悩んだりする。だから一層のことエンターテインメントを提供できる側にならないかと考えた。なんの才能もないけど、携わる仕事ならできないかと。

星野さんも昔同じことを思っていたらしい。そして実際才能があった星野さんはアーティストになった。しかしこの鬱々とした気持ちは続いたそう。
その理由は結局のところ、どんな仕事をしてもどんな人生を送っても、私たちの人生と生活は隣り合わせだからだ。いくら有名人でも洗濯をするしたまに失敗して生乾きになったり色移りしたりするし、10個入り1パックの卵を使いきれず結局腐らせたりする。(みんなそうではないと思うが)

つまり、生活を大切にできない人に健やかな日々と晴れ晴れとした気持ちは訪れないらしい。仕事を変えたってそこの部分は変わらない。(変わる部分も沢山あるけど)
ひどく納得した。わかっているようでわかっていなかったことだ。それを本物のアーティストを生業としている人間が言うのは今までのだれの言葉よりも説得力があった。


日常をかわいがれる、楽しめる人だけが幸せになれるのかも。この鬱々とした気持ちと付き合うには、ともに生きていくためには生活を大切にすることが、というか好きになることがどうやら必須条件らしい。
これはわたしにとってはすごくむずかしいことです。嫌いなものを好きなるってむずかしい。でも、丁寧な暮らしというものは送れなくても、自分の心地よさをつくるためにすこしだけ努力しようと思います。
①食べることが好きだから、適当なごはんをやめる、食べ物に感謝する
②洗濯ものは溜めてもいいけど大事に洗う、大切な服を長く着るために
〜略〜
さいごに:やらなきゃダメだって思わない、できなかった日の自分を責めない、ダメダメだった日を送っても生活自体は続くのだから

これはわたしと生活の、しぬまでつづく長期戦である。

しぬまでには生活をすきになって、すきになれたそのあかつきには、握手を交わしたいと思う。きっとその頃には、部屋には光が差し込み、その光を取り込んだ植物は生き生きとし、部屋全体が呼吸をしているだろう。

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