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【LIFE MUSIC】降谷健志が生み出す世界

幼い頃 宝の地図を描いては

皆夢中に想像して
誰もが宇宙に行こうとして思い馳せる

知らぬ間に窮屈になる毎日で

ホコリを払い除けいざ行こう
残りの互いの生活を

赤茶げた碇を上げ
ほら放たれた光の船出

ほころびた地図を手に
ほら喜びは自分の胸に

恐怖心で身を伏せるより
ほら好奇心で宙を舞うように

本当の僕らは自分次第
ほら本当の僕らは自由自在


2000年前後に、ローカルカルチャーから若者に着火し、爆発的な人気となった音楽ジャンルがある。

HIP HOPだ。
日本における、後のレゲエ・クラブミュージック・EDM発展の礎を築いたことは間違いない。

1994年3月9日、世間にHIP HOPをいうジャンルを認知させることとなる楽曲
「今夜はブギー・バック」が小沢健二とスチャダラパーの手によって制作・発表された。

立て続けに EAST END×YURI による「DA.YO.NE」「MAICCA -まいっか-」がリリースされると、どちらのシングルもミリオン達成し、翌年 EAST END×YURI は紅白に出場した。

1990年代後半は現在でいう「フェス」が活発になり、様々な HIP HOP アーティストの登場や交流がなされ、2000年代前半の HIP HOP カルチャーの地盤が築かれていった。

1999年5月1日。
日本の HIP HOP は、以後のカルチャー爆発の起爆剤となる楽曲が世に出たことで、絶対的な地位を獲得する。

Dragon Ash、zeebra、acoによって製作された「Grateful Days」は、オリコンランキング1位を獲得した。

後に発表されたDragon Ashのアルバム「Viva La Revolution」は、180万枚を売り上げ、こちらもオリコンアルバムチャート1位を獲得した。


今日は、Dragon Ashのギターボーカル、「 Kj 」こと降谷建志について。


こんにちは。

谷塚総合研究所、音楽部の塚本です。

今日はアーティスト紹介の記事です。

冒頭に掲載したのは、SPECIAL OTHERS & Kj による「Sailin'」の歌詞一部です。


経歴・人物

青山学院初等部、青山学院中等部、青山学院高等部中退後、代々木高等学校(通信制)に編入学し、卒業。1年間の留学経験がある。

1996年に桜井誠、馬場育三と共にDragon Ashを結成する。

三人態勢での楽曲はミクスチャー感こそあるものの、
ギター片手に腰かけて歌うKjが魅力だった。

父は俳優の古谷一行で、妻はタレントのMEGUMI。

長男は 降谷凪 名義で、映画「ラストレター」に岸辺野瑛斗役で出演し、俳優デビューを果たしている。

Kj本人も、2017年リリースの映画「アリーキャット」にて、窪塚洋介とのW主演を果たしている。

相棒の窪塚洋介も「卍 LINE」名義で、レゲエDJとして活動している。


楽曲

Dragon Ashとしての楽曲は、「やかましい」「何言ってるのか分からん」と言う意見が多数だと思う。

初期の HIP HOP というのは、シンプルなトラックに言葉の羅列を配置し、DJ自身の言葉を「述べる」といったようなものが多かった。

2000年を迎えるころから、HIP HOPのトラックも多彩なものに変化していき、音楽としての魅力も向上していくことになる。

Dragon Ash の大きな特徴として「オシャレなサンプリング」「重厚な楽器隊の演奏」「ボーカルとしてのKjのスキル」があげられる。

Drago Ashの躍進は、この「ミクスチャーバンド」というスタイルにある。

ただ、HIP HOPというジャンルを一時的な人気だけではなく大衆化させた功績は、RIP SLYMEとケツメイシにあると思っている。

Kjは、長く憧れていたzeebraへの「サンプリングが強すぎた」ことで仲違いし、HIP HOPから遠のいていた。

その後は「ミクスチャーロックバンド」として活動を続けている。


Kjが紡ぐ、言葉の魅力

楽曲の歌詞として、Kjの言葉には独自の魅力がある。

彼の書くリリックは、「私」と「あなた」という意味の言葉が異常なまでに少ない。

リスナーは彼の音楽を「私自身に向けられたもの」というよりは「ただそこに流れているかのような」印象を受ける。

彼は誰かの背中を押さないし、励ましてはくれない。

ただ、そこに音楽として寄り添い、流れているのだ。

彼の作詞者としての才能はそこにあるのではないか?と私は考えている。

実際、Dragon Ash の楽曲は、私たちに何かを押し付けない。

考えさせられるのは、音楽という「彼が生み出した世界」に対するものであり、彼自身についてではない。

そのこと自体が彼の魅力であり、多くの人に対し「ただ寄り添う音楽」を発信し続けられる要因だと思う。

恐らくKj自身、初期のHIP HOPの代名詞ともいえる「自己紹介」と「あなたに向けた歌詞」というものに嫌気がさしていたのだろう。
それを封印することによって、彼はHIP HOPを大衆の目に触れさせることに成功した。

季節はずれのこの雨が ぼかした表情とその涙
降りやまないうちにGerra
すかした顔してフッと笑ってな
てな具合で進むそっこうOne week
つかれた体でそっとOne drink
つどう先は仲間達 いつものように夜通しバカ話
こんな日々が終わらないように
羽根を広げはばたく鳥のように
みんな必死なんだ 負けんな いねぇぜピンチランナー
あざけ笑う奴を尻目に つかめ描いた夢をにぎった手に
雨上がりの流れ星 ねがいをかけて さあ上がれ同志


現在

2012年に、Dragon Ashの大黒柱であったベーシスト「馬場育三」が逝去。

彼は最年長者として、音楽業界の先輩として、Dragon Ashというバンドの支えであり、彼の奏でるベースラインは唯一無二だった。

サポートメンバーとして加入したKen Kenも、間もなく大麻取締法違反で逮捕・脱退。

様々な音楽ジャンルを遷移し、まさに「ミクスチャーバンド」となったDragon Ashだが、これからも精力的に活動していくことだろう。
私は期待したい。

Kj自身も様々な経験を経て、私たちにそれらを音楽として発信してくれるだろう。

2000年代のHIP HOPシーンの立役者は、現在でも私たちにメッセージを投げかけている。