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頭の中に「牛」を飼う

みなさん、こんにちは。牛ラボマガジンです。牛ラボマガジンでは「牛」を中心としながらも、食や社会、それに環境など、様々な領域を横断して、たくさんのことを考えていきたいと思っています。

今回は牛の「反芻(はんすう)」に着目して、牛たちの生きる姿が私たちに教えてくれることについて考えてみたいと思います。

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以前の牛ラボマガジンに、夏目漱石の「牛になる事はどうしても必要です」という言葉を取り上げた記事があります。

牛のように生きるーー夏目漱石の言いたかったこと

牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです

「牛になる」とは何なのか。なぜ私たちは「牛にはなかなかなり切れない」のか。どうしたら「牛になる」ことができるのか。(そもそもなろうと思わないよ! という声も含めて)

今回の記事では、そのあたりを少し深掘りしてみたいと思います。

ドイツの作家でありジャーナリストでもあるフロリアン・ヴェルナーの著作に、『牛の文化史』という本があります。

フロリアン・ヴェルナー著、臼井隆一郎訳、『牛の文化史』、東洋書林(2011)

この本の中では、古代エジプトから現代に至るまでの人類と牛の関係を、神話、芸術、牧畜、食肉、疫病……等、いろんな切り口で解き明かしています。

その中でも特に私が注目したのが、

牛の日々の労働の大半は、(中略)反芻からなっている

という部分です。

「反芻(はんすう)」という労働

牛には胃袋が4つあるというのは有名な話です。牛は第1〜第3の胃で、飲み込んだ草をもう一度口の中に戻して、噛んでは飲み込み、噛んでは飲み込みを繰り返し(=「反芻」)、その過程で微生物によって草を分解します。そして最後に、第4の胃で消化します。

胃を1つしか持たない哺乳動物は草の繊維に含まれているセルロースを消化することができませんが、胃を複数持ち「反芻」することができる牛は、それを養分として取り込むことが可能なのです。

牛はこの『労働』を、草を食む本来の姿とは違って、快適に寝そべってでもやってのけることができる

牧草地で気持ち良さそうにごろごろしている様子は、「労働」と表現するには何だか不似合いな感じがします。しかし、

ほんの少量の食事を四十ないし六十回をかけて細かく噛み砕き、ふたたび飲み込む仕事で一日のうち九時間を費やすのである。これは、日に三万回の咀嚼運動となる

こう言われると、確かに牛は、大層な「労働」に従事しているような気もしてきます。

今という時代に「牛」の足跡を刻む

高度経済成長の負の遺産である、資本主義の行き過ぎや止まらぬグローバル化の弊害として、公害や気候危機などの環境問題、経済格差の拡大、人権侵害など、深刻な問題が生じているのは周知の事実です。

企業や社会が、そして個人が、極めて狭義の経済合理性ばかり、経済成長ばかりを追い求めて周囲を顧みない、スピードをゆるめないことに対する批判や警鐘は、年々厳しくなっています。

そのような中にあって、「牛のように生きる」ことは、個人が置かれた日々のストレスフルな状況を解消すること以上に、その個々人が暮らす社会の病理を根本から治癒していくために重要な手立てになる考え方として共感する人も多いのではないかと思います。

とはいえ、周囲が「馬のように」ものすごいスピードで駆けて脇を通り過ぎ、遠くに行ってしまうのを、自分はそこにいてただ眺めているのは、なかなかもどかしく、焦りも生じるのが当たり前です。

自分も筋力や脚力をつけて、社会に「適合」していかなければならないのではないか。そんな追い立てられるような感覚をもったり、逆に強く反発して、「何か変革を起こしていかなければならない」と必要以上に思ってしまったり。

そんな切迫感や不安定さに耐えられなくなれば、本当のところの希望や願望、理想を諦めて、不貞腐れて、投げやりに放棄することで、「牛」であることを消極的に肯定する……。
残念なことに、そのような牛のなり方が現実的なのではないかとちょっと思います。

一方で、もしその人がその努力と幸運により、社会を駆けていくための十分な筋力や脚力を蓄えていて、軽快に、心地よく走っているのだとしたら、わざわざぼんやり佇んでいる牛に憧れる暇も、急ブレーキを自らかけて、つんのめるようにして止まることもしないだろうと思います。

頭の中に「牛」を飼う

しかし、その牛のような態度は、本当は怠惰でもないし、無能でもないはずです。
今社会にあるルールは未熟で不完全です。そのゲームの中で、残念なことに、勝ち続ける人もいれば、うまくできない人もいます。ですが、それは個人の責任ではありません。たまたまうまくできないことがあったとしても、個人が卑屈になる必要はありません。

先述したように、ゆっくり噛んで消化していく「反芻」は、立派な「労働」でもあります。たとえ何かカタチやコトバを生み出していなくても、何かを思い、悩み、考える。それだけで充分、日々の重要な生産活動に向き合っていると考えてみたらどうでしょう。

牛になりたい人も、なりたいのになりきれない人も、そもそもなりたいなんて思わない人も。

私たちは人間なので、1日に9時間、草を噛み砕いてばかりではいられないのは当然ですが、思考の中に、頭の中に、「牛」を1頭飼い、その牛に「反芻」をお願いしてみる。
1日のどこかの時間で、その牛の様子を見に行って、自分の思考を牛に重ねて、ゆっくりと反芻して、「牛」と同化してみる想像をする。

誰しも、生きていてどうしても、長い時間かけてもまだ消化しきれない、「反芻」を続けている事柄や、記憶、想いがあるのではないでしょうか。私にも、時間が経ってもまだ消化しきれない思い出があります。

牛に向き合ってみた今、その消化できない思い出を、少し大切にしてみてもいいと思いはじめています。
なかなか消化できないようなものだったとしても、頭の中の牛に相談しつつ、ゆっくりと反芻を続ければ、それがいつかきっと養分になるはずです。そしてそれは時間の無駄などではありません。立派な労働であり、生産活動なのです。
きっとその「反芻」の積み重ねの先に、今の社会のゲームや未熟なルールの枠を越えた、ひとりひとりの思考の水脈が大地を潤すように豊かに広がっていく世界があるのではないかと想像しています。

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参考文献
夏目漱石、『漱石書簡集』、岩波文庫 (1990).
フロリアン・ヴェルナー著、臼井隆一郎訳、『牛の文化史』、東洋書林(2011).

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(執筆:野呂美紗貴、編集:山本文弥)