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牛のように生きる――夏目漱石の言いたかったこと

みなさん、こんにちは。牛ラボマガジン編集部の山本です。

今回は、夏目漱石です。「牛ラボマガジンでなぜ夏目漱石?」と思うかもしれませんが、実は夏目漱石が書いた文章の中に、「牛」に関するものがあるのです。
その文章を紹介しつつ、夏目漱石は「牛」のことをどう思っているのか、夏目漱石は「牛」を通して何を伝えたかったのか、少し考えてみたいと思います。

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馬ではなく、牛になる

牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。僕のような老猾なものでも、ただいま牛と馬とつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。

あせっては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可せん。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手を拵えてそれを押しちゃ不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうしてわれわれを悩ませます。牛は超然として押していくのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。

これから湯に入ります。

これは、夏目漱石が自分の門下である芥川龍之介と久米正雄に宛てた手紙の中の一文です。この文章から、漱石が牛のことをどう思っていたのかがよくわかります。

われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。

「馬になりがたる」というのは、この文章の文脈と馬のイメージから考えると、「早く、俊敏に、優雅に、突き進んでいく」、そんな様子でしょうか。たしかに人はそのように動きたがるかもしれません。少しでも格好良く、少しでもはやく目的地へ。そうできるのであれば、誰もがそうしたいと思います。「馬になりがたる」という言葉からはそんなイメージがわきます。
一方、牛はどうでしょうか。この直前の文章で漱石は「牛になる事はどうしても必要です」と言っています。また、「馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れない」という言葉と合わせると、「われわれは馬ではなく牛になる必要があるが、それがなかなか難しい」というニュアンスが伝わってきます。つまり、人間には、「早く、俊敏に、優雅に、突き進んでいく」ではない、別の方法が必要ということです。では、牛はいったい漱石にとってどのようなイメージなのでしょうか。

あせらず、深く考え、根気よく

あせっては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可せん。根気ずくでお出でなさい。

漱石は、牛に対してこんなイメージを持っていたようです。「あせらず、深く考え、根気よく」、たしかに牛はそんなイメージもあります。悪く言えば、「のんびりしていて、遅い」ということかもしれませんが、それは言い換えれば、「時間がある、余裕がある、考えることができる」ということにもなります。
たしかに、あせって進んでしまっては、周りの景色をゆっくり見ることができません。馬のようになれば、目的地へははやくたどり着くことができるかもしれませんが、足元にある綺麗な花を踏んでしまったり、大切な人からの声がけを聞き逃してしまったりしてしまうかもしれません。

この手紙は1916年(大正5年)に送られました。それから104年、この漱石の言葉は、なんだかいまだからこそ身に沁みる気がします。
2020年のいま、テクノロジーが発達して、インターネットが普及して、便利な世の中になりました。いろんな無駄が排除され、効率的になっていきました。また、SNSの誕生で、いままで見えなかったたくさんの人たちの存在が見えるようになりました。しかし、いまそこで起こっていることは、必ずしも良いことばかりではありません。
脊髄反射で感情的に反論したり、深く考えずに行動してかんたんに炎上したり、匿名をいいことに人を追い詰めたり、良いことだけでなく、良くないことも効率的になっている気がします。

インターネットのおかげで世界はどんどん広がっています。いままで見えなかった世界が見えるようになり、いままで聞こえなかった声が聞こえるようになりました。
そのどんどん広がる世界に必死でしがみつこうとすると、早く走るしかありません。しかし、それはキリがありません。世界は宇宙のように無限に広がっていきます。流れに乗るのなら、馬になって無限に走り続けるしかないのです。しかし、言うまでもなく、人生は有限です。馬のイメージや生き方を否定するわけではありませんが、ゴールの見えない(もしくはゴールの存在しない)社会において早く走り続けることは、あまり良いことではない気がします。

牛は超然として押していくのです。

世界が無限に広がったとしても、結局のところ自分にできることは限られています。そのことを落ち着いて理解し、自分がやるべきことを考え、激流に流されることなく、超然と自分の時間を生きる、それが漱石が希望した、牛になるということなのかもしれません。そしてそれは、2020年のいまだからこそ必要なのかもしれないとも思います。

人間を押すのです。文士を押すのではありません。

特定の役割や肩書きや領域だけを成長させるために早く走るのではなく、人間や社会を考えるために落ち着いて歩く、それが漱石の言う牛であり、芥川龍之介と久米正雄に期待したことなのではないでしょうか。

牛になる勇気

これから湯に入ります。

そして、手紙はこの一文で終わります。この一文こそが白眉です。この一文から、いままさに牛になろうとしている漱石の姿が浮かびます。
湯にはいれば強制的に足が止まります。何かをしようにも、何もできません。戦おうにも、裸です。わたしたちは、何かをやらなければいけないようなときこそ、湯に入る余裕を持つと良いのかもしれません。

最後に、なぜ人は「牛にはなかなかなり切れない」のか考えてみたいと思います。
ここからは持論になってしまいますが、牛になることには「勇気」が必要だからだと思うのです。世界がはやく動き、それにつられて人々もはやく動き、どれだけはやく動くか、それが成長だと思われているなかで、わざわざ立ち止まることには勇気が必要です。激流に流されない、意志の強さと足腰の強さが必要です。きっと、それができるのが牛なのです。

とはいえ、もちろん馬を否定するわけではありません。漱石も馬を否定したくてこのような手紙を書いたわけではないと思います。
ときには、馬のように走ることも必要だと思います。でも、そればかりではダメだということです。

千葉ウシノヒロバには、もちろん牛がいます。ウシノヒロバにお越しの際には、ぜひ牛を見て、この話を思い出してもらえると嬉しいです。ウシノヒロバが、勇気のための小さなきっかけのひとつになるような場所になればと思っています。

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参考文献
夏目漱石、『漱石書簡集』、岩波文庫 (1990).

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(執筆・編集:山本文弥)