なぜカンボジアでVTSを始めたのか?3
VTSを始めてみたい
買った書籍はコレ。
VTSはアメリカのMoMA(ニューヨーク近代美術館)で美術鑑賞教育プログラムとして始まったのだけど、その開発者が書いた本で、アメリカでのVTSの進め方などが書いてある。
これをもってすれば、美術の時間という枠内でもカンボジアの生徒に観察力をつける授業ができるのではないだろうか?
幸い、専門学校のフルタイムのコースでは、週一3時間弱の時間を受け持っているので、1時間くらいをVTSにあてる余裕がある。
カンボジアの事情
ただ、VTSは「対話型美術鑑賞教育」とも訳されるように、ディスカッションがメインの手法になるが、カンボジアの生徒たちがディスカッションできるか?というと「難しい」と言わざるを得ない。
noteでも散々書いたが、今の20代以上の子たちが受けてきた教育は、良い生徒は先生の意見を丸暗記することで、自分の意見を育てるという教育がまるきりなされていない。
そのため、インターナショナルスクールに通っていた子たちだけが喋り倒し、他の子はじっっとそれを聞いているだけになってしまう。
重要なのは「気づきの発見」と「意見の承認」
なにが大切なのかを考えてみると、自分の意見を言えることはもちろん大切なのだが、それよりもまずは自分の意見の土台になるための「気づき」が最も重要だと考えている。
気づきを発見し、それを土台とした意見を通して「承認」してもらうことにより、自分の意見に自信がついてくるわけだ。
とりわけカンボジアでは前述したように、自分の意見を承認してもらう機会はないため、気づきの訓練もできていない。
そのため、個々に気づきを求めてもなかなか出てこない。しかし、決して何も出てこないわけでもないのだ。
じゃあ、みんなで発見した気づきをシェアしよう
自分で気づけることができないなら、みんなの気づきをシェアすればいい。
気づきをマインドマップとして集計し、それをプロジェクターで投影しつつ、みなで気づいたことを共有していく。
他人の発見をみて「ああそうか、なるほど」と自分も発見することも、気づきの教育では重要なことと考えている。
マインドマップは、気づきの教育においてはとても重要な役割をもつため、現在は小学校6年性の国語の教科書にでてくる。
これは深層意識にあるふわっとした気づきを可視化できるため、次の発見に繋がりやすいのだ。
そして、クラス全員で気づいたことを元に、意見を考えてみる。
気づきを教育したら、同じような意見になるのではないか?と思われるかもしれないが、意外とそうでもない。
なぜなら、発見した気づきのなかでも、それぞれの重要度は個々によって違うためだ。
素材を絵画からポスターに変えていく
そうして、最初は絵画から始まったVTSを、途中でグラフィックポスターに変更し、同じことをやる。
前述した通り、シンプルで素晴らしいポスターはその背後にある文脈、つまりそのポスターを目にする人の共通した常識、を徹底的に省いたものも多い。
そこで、有名どころのポスターを使用し、文脈をVTSで読み取るという訓練に変更していく。
さらには、VTS的思考を”習慣”にまで定着する狙いで、短編アニメーションなどでも同様のことを行う。
効果のほどは?
こうして、試行錯誤して三年間、カンボジアの子たちにVTSを試したが、効果のほどはどうだったのか?
正直言って、残念ながらこの教育方法は、目に見えた成果というのが出現しづらい。
例えば、それをやったクラスとやってないクラスでは、どのように変わるかを比べることができるなら、効果を測定できたかもしれないが、それも難しい。
なぜなら、同じ学校で同じ先生の授業を受けたのに、内容が違っていたら問題だからだ。
しかし、最後の課題で、グラフィカルなマインドマップを作る課題があるのだが、そこで手間取る生徒はほぼいない。
ほぼ全員、マインドマップを作るのは初めてなのだが、VTSを通してさんざん見てきたため、物事を分解してグルーピングする手法は身についたためと思われる。(習慣にまで昇華できたかは難しいが)
また、
・学校側の許可も取らずVTSを勝手に始めたが、むしろ歓迎されていた。
・最初は数人いた美術の先生が、最終的に自分だけになった。
などがあり、学校側からも自分のVTSを認められていたようだ。
願わくは、生徒たちが、将来、「気づき」の重要性に”気づき”、次世代に伝えることができればいいなと思う。
おしまい