深夜のプールサイドでだけ会えるわたしの推しの話【短編小説】
深夜の校舎にしのびこみ、ひとりプールサイドにしゃがんでふるい文庫本を1冊水面の向こうへとぷんとしずめる時、樋曾上照夜(ひそがみてるよ)は推しのアイドルとたった7秒間の握手をするためだけに1か月分のバイト代をほとんど全額注いで同じCDを何枚も買う友人のことを追想せずにはいられない。そんなことはないはずなのに、たかだか文庫本の1冊で推しのひと晩が手に入れられることがなんだかとてもずるいことをしているように思わされるのだ。
舞城王太郎の『畏れ入谷の彼女の柘榴』が、なまぬるい風のえがく波の手にいざなわれるがまま暗いプールの底に落ちてゆく。かわいらしい装丁が、なまぬるい水にふやかされて滲んでゆく。1週間前には『私はあなたの瞳の林檎』を、3日前には『されど私の可愛い檸檬』を同様に投げ込んだ。舞城王太郎の『熊の場所』を気に入ったと言うから短編集もきっと好きになると思った照夜の予想は見事に当たった。好きな本の話ができるのは嬉しい。照夜はそのまま、しばらく待つ。本の背表紙がプールのあしもとに至る姿を想像する。
──ややあってから、眼前に飛び出してきた書生姿の幽霊は高らかな声で言った。
「やあ君! 3日前に寄越してくれたあの短編集は最高だった! 特に『トロフィーワイフ』が面白かったな! 舞城王太郎とやら、人間の狂気とは何たるやを描くのが上手い……!」
飛沫の一つもたたないプールの奥から唐突に現れたひとりの青年が、照夜の目の前で満面の笑みを見せながら何度もうなづく。一度のみならず繰り返し面白かったと語るくちもとにどこか悔しさを垣間見てしまうのはけして照夜の勘違いなどではないだろう。じっさい、彼は悔しがっているのだ。だからこそこんなプールにずっと居る。高等学校のプールに居ついて、文庫本が投げ込まれるのを待っている。
照夜は今夜も文庫本1冊で推しのひと晩を買う。ほかの誰にも、ましてや星にさえ邪魔をされずに推しをひとりじめする。夜更かしをして翌日の授業をだめにしてまで、朝陽に溶けて青年のかんばせがとうとう透けて見えなくなるまで、幽霊と好きな本の感想を言い合うのだ。
立ち襟のワイシャツに上から着物を纏った書生姿の幽霊である青年は名を曙宗太郎(あけぼのそうたろう)といった。腹痛を理由に水泳の授業の見学をしていた照夜が、教師に隠れて読んでいた伊坂幸太郎の『ペッパーズ・ゴースト』をプールに落としたのが彼との出会いのきっかけだった。
宗太郎はそのとき、音もなく照夜の前に姿を見せた。プールの海へと身投げした『ペッパーズ・ゴースト』を拾い上げたかと思うと、しめって波打った青空の表紙を眺めて「ずいぶんと面白そうな名前の本だなあ」と平泳ぎで泳ぐ男子生徒に中身の伴わない肢体を貫かれながらつぶやいていた。短く整えられた黒檀のごとき淑やかな照りを持つ髪に水を浴びた鴉羽の潤いを持つまなこ、真夏も迫る暑さの中なのに首元まできっちりと綴じられた釦に大河ドラマでしか観ないような和装、透けた足もとに照夜以外の誰もその青年を観測できていないのが恐ろしくて、初めは恐ろしさのあまりに声も出なかった。「大事な本を落としちゃあいけないが、こんな水場に持ってくるほどとは。もしや小説が好きかい? 短い髪のお嬢さん」──それが照夜と曙宗太郎との初対面だった。ちなみに小説をプールに持ち込んだことはのちに確りと教師に発覚し、照夜はしこたま怒られた。この教師がせめて『ペッパーズ・ゴースト』に出てくる壇先生ならよかったのに……。照夜は妄想をする。そしたら、幽霊との邂逅をも見事観測し、この事態の異様さに気づいてくれたはずだ。照夜ががみがみと怒られているうちに、幽霊はすっかり姿を消していた。それはもう幽霊らしく、影もかたちもなく。
その日の夕の暮れごろ、照夜が書生姿の幽霊の存在を確かめに放課後のプールサイドへ足を運んだ理由は言うまでもなく好奇心によるものだった。何せ、暗い場所に立っているおそろしい形相を浮かべた髪の長い女でなく、にこやかな顔で小説が好きかと問うてくる幽霊だ。ファンタジー好きであるのなら、ハリー・ポッターシリーズに出てくるゴーストをいとおしく思わないわけがない。首の中身を見せられたら流石に卒倒する自信があるけれども、それでもきっとうれしいが勝る。ひとことだっていい、何か話をしてみたい!
けれども、考えもなしに衝動で這入り込んだプールサイドでのんびりとしゃがみこんで待っているだけでは一向に現れるようすがなかったから、法則性を確かめようと思考した照夜は試しにとふたたび、というか渋々『ペッパーズ・ゴースト』をプールに落とした。さすれば、書生姿の青年は3秒と経たずすぐさまふわりと照夜の前に姿を見せたのだ。2度目の出逢いであっても新鮮に驚いた顔をみせる照夜をみおろし、涼しげなおもざしで彼は言った。
「おお、やっぱり君か。いやはや、うれしいね。でもねえ……できれば今よりもう少し遅い時間に来てくれると助かるんだがなあ。こうして話している姿を人見られると君も困るだろう? 違うかい?」
投げかけられた言葉に、照夜は自分の脳天に角の立った星が空からひとつ落ちてくる感覚を幻視する。は? と言いかけた口を咄嗟につぐんで不服に頬をふくらませ、憤った。ただでさえ2回もあの『ペッパー・ゴースト』を捧げているっていうのに、呼び出す時間まで気遣えって? 幽霊のくせに注文が多すぎる……!
などと言って地団太を踏みたかったし言ってやりたいことは屋根の高さまで積もる雪の如く在ったけれども照夜は結局諦めきれなかった。幽霊との邂逅に胸をときめかせられないほど、読書家としての心は死んでいないのだ。家と学校との距離があまり離れていないこと、出張の多い父と看護師の母がよく夜勤に出て家を空ける環境をいいことに、照夜は幽霊の指示どおり一度家に帰ってから夜がやってきて月が丁度よい場所まで登るのをひたすらに待った。そして夜ごはんの冷凍うどんを食べ終えると着替えもせず制服のまま、すぐに深夜のプールサイドに出向いた。
ローファーを脱ぎ、セーラー服の襟を捲らせながらくたくたに成ってしまった『ペッパー・ゴースト』による三度目の投降を経て、狙いどおり照夜は改めて幽霊と相対できた。息を切らす照夜のようすに彼は言う。
「熱心なことだね。こんな幽霊なんかに」
而して照夜はとうとう幽霊のむなぐらをつかんでやろうとした。然し、前方へ伸びた手はたやすくすり抜けて青年の胸を撫でる、……ような形になった。今の時代のおなごは積極的だね、の言葉に死にそうになった。
そのような形で始まった曙宗太郎との逢瀬を、6月の終わりから夏休みに差し掛かる時期に至るまで繰り返したことで、照夜は宗太郎について確かめられたことがいくつかあった。まず、宗太郎と会うには文庫本の小説を必ず1冊プールへくべなければ──それはまるで金の斧と銀の斧とを落とされて頭を出すかの有名な女神の如く──ならない。決まって2冊ではなく、ぜったいに1冊でなくてはいけないのだ。そして本を〝渡す日〟と〝語る日〟にしか宗太郎は出てこない。渡す日と語る日のあいだは最低でも3日ほど空けなくてはならず、翌日に違う本を落としても宗太郎は現れない。彼曰く──「君、もうすこしちゃんと小説を読みなよ。寿司とかも、ほら、二口で食うのかい?」余計なお世話だ。ええ、本当に!
藤本義一の『鬼の詩/生きいそぎの記』、柳広司の『百万のマルコ』、古市憲寿の『ヒノマル』、舞城王太郎の『熊の場所』、矢部嵩の『〔少女庭国〕』、島本理生『星のように離れて雨のように散った』──等数々の傑作や選りすぐった名著を照夜が捧げる都度、宗太郎は大層喜んだ。語る日に現れる宗太郎はやってきた照夜ととにかく本の感想を語りたがって、伝えたいことが喉のあたりと脳みその根で渋滞し早口になった果てに自分の舌すら噛む様がおかしかった。実体がないくせに、幽霊も舌を噛むのだ! 慌てなくたって夜は永いし、語り足りなければ明日も来ますから。照夜がそう言えば、生前は好きな小説のことを話せる友人が周りにいなかったからその反動だ、と宗太郎はまゆをさげてわらった。照夜は小説が大好きで、宗太郎も小説が大好きで、ふたりとも何にも代えられないほどに読書が好きだった。その共通点だけで、ふたりは十全だった。
照夜が訊ねれば訊ねるだけ、宗太郎はすこしずつおのれの出自についても語ってくれた。決まって深夜のプールに現れる彼は今から約100年ほど前、……大正時代に、照夜の通う古ヶ林高等学校のあたりに建っていた──宗太郎曰く、とても大きくてとても立派でとてもきれいな宗太郎の親族の家──日本家屋に住んでいて、日々勉学に励みながらまばゆい将来を夢見ていた書生であったらしい。然し或る日不運にも腸チフスに罹患し、彼は道半ばの17歳で命を落とすこととなったのだが、……一体その道半ばとは? ──そう、それは小説家になるための道半ばでのことだった、と宗太郎はさみしげに語った。曙宗太郎は小説に身を捧げ、小説の執筆に命をかけ、そのために死にたかったほどに小説が大好きな青年だったと。小説家になりたくて、小説が好きで好きなあまり100年ものあいだ成仏できず、挙句家は木っ端みじんに取り壊されその上にプールができた。人生って死後もどうなるか分かったものじゃない。照夜はくちびるを噛む。目の前のノンフィクションに、胸が痛くなる。とんでもないことだ。とんでもない話だ。
それでも宗太郎はプールサイドに腰掛け、照夜の隣で安野貴博の『サーキット・スイッチャー』を読みながらしみじみと言う。月の放つぼんやりとした銀のあかりを頼りに透明のひとみで文字を追い、砂浜の中でこなごなに割れた貝がらが陽光を反射するように星がきらめく間にも何度だって言う。
「あきらめきれないうちにこうして未来の小説が読めて、それを語り合える友人ができたんだから、プールの一つや二つ骨の上にできても構わないってもんさ」
照夜はその話をされるたび、実はすこし困った。夏の夜を旅する風に靡くおのれの髪が、困った顔を宗太郎から隠してくれたら、と思っていた。困るという想いのふもとに根差すのはわたしが卒業したら、一体この幽霊はどうなってしまうのだろうという恐れだ。照夜は宗太郎と同じ17歳で、来年には古ヶ林高等学校を卒業してしまう。こんなに嬉しそうな顔をされてしまったら正直困る。まだ顔を合わせて1か月なのに、こんなにも幽霊に情が移っている自分もどうかしている。でも致し方ない。クラスにはこんなにも熱心に、ましてやひと晩じゅう、なまあたたかなここちのいい風を受けながらアマル・エル=モフタール&マックス・グラッドストーンを語れる友人なんて居ないのだ。……
「てかよよよはさあー、もうDO★リエラのすばぴよの話しなくなったよね。最近は推しいるの?」
期末テストの直前、頻繁に宗太郎と過ごすようになって下まぶたに隈をこさえ始めた照夜は昼食を共に食べる友人の杏果にそう聞かれて、やや悩んでから答えた。
「うん。幽霊だけど」
詳細は語らないけれど、確かな声でそう返した。照夜にはCDを何枚も積まなくても1冊の文庫本だけで、ひと晩となりに座って小説について語ってくれる、友人と称ぶにはすこし奇異な推しがいる。推しと呼べる存在がいる。
宗太郎と出逢って一か月が経ち、夏休みに入っても照夜は数日おきにプールへ通った。カレン・ラッセルの『オレンジ色の世界』、アストリッド・ホーレーダーの『裏切り者』、秋野ひとみの『緑の谷でつかまえて』、高山羽根子の『オブジェクタム』を宗太郎に贈る。贈り続ける。けれど、宗太郎に逢いたいがため水の中へ落とした本の分だけ本棚は痩せてゆく。補充されなければ、本棚は飢えるばかりだ。骨組みが見え、あばらが浮き始めている。照夜のお気に入りは次々とプールに姿を消してゆくばかりで、胃を空にした本棚は空白が満ちるのをただただ待っている。
本屋で新作を買ったとしても、宗太郎へ本を渡す前に照夜も本を読み自分なりの解釈を深め、感想を準備しておく必要があった。とはいえど、あまり日を離したくもない。なにせ幽霊という存在の心許なさと言ったら! 宗太郎がいつ消えてしまうかわからない。未練があると話していたけれど彼を成仏させてしまうきっかけがわからない。いつ宗太郎に会えなくなるのかわからない。仮に結ったとてその約束に効果があるのかわからない。散歩中の犬のようにプールサイドのフェンスに彼を縛っておけるならいくらだってそうする。けれども宗太郎はすり抜けてしまう、幽霊だから!
照夜の本棚にはあと1冊だけとびきり好きな本を置いていた。もうかなり古い見目の、ページが茶色くなってしまった本だ。それを手に取ろうとして、刹那に躊躇い、矢張りつかむ。そうめんを慌ただしく啜った照夜は今日もプールサイドに駆ける。
プールサイドのふちに腰かけ、照夜は持ってきた本を落とす──手前でやはり迷っていた。こんなにも大切な本なのに、という気持ちと、こんなにも大切な本だからこそ宗太郎と会えているうちに語り合いという気持ちのはざまで揺れる。数分ほど逡巡し、照夜はくちびるを真一文字にむすぶと意を決してその物語を水にふれさせた。もう何度目になるかわからない、見慣れたよそおいの宗太郎が現れる。
「ほーう? なるほど今日はこれってわけだね。……ええと、古い本のようだけど。これは照夜が最近買った本なのかな?」
「……ううん。違う。そうじゃないの。」お気に入りはもうあんたにほとんどあげたから、残ってるのがこれしかないの。とは言わずに、照夜は答える。「小さいころに父さんがくれた本なんだ。今は難しいだろうけどいつか読めるはずだって言って。確かに、内容が難しくて字も癖があって読むのが大変だったんだけど、……ちいさいころからわたしがすごく好きな本なの。一番って言えるくらい。だから、宗太郎にも読んでほしい」
宗太郎は照夜の落とした本を一瞥すると、照夜の込めた強い想いとは裏腹にこともなげにわかった、とだけあっさり言った。当然だ、彼はこの本が面白いかどうかにだけ興味があって、照夜がどのくらいその本とのあいだに思い出があるか、その本を大切にしているかについてはあまり興味がない。宗太郎はずっと、先日照夜が渡した松崎有理の『5まで数える』のどこが面白かったか、早く語りたくてそわそわとしているのだ。照夜もそれを察している。
──果たして宗太郎が定期的に現れなくなったのは、それからのことだった。宗太郎は忽然と姿を消した。置手紙もなかった。実体なんてないんだから、幽霊とは斯くあるべきだ。でもさみしい。
照夜がいっとう大事にしている本を渡してから2週間が経過しても、あの書生は語る日にプールに姿を見せなかった。焦った照夜が連日本屋で文庫本を迎え入れ、徹夜で本を読みプールにそれぞれを落としても、ひと晩じゅうプールサイドで膝を抱えて待っていても、反応はなかった。
宗太郎の喪失を実感できないままでも夏はとうとう盆を過ぎ、蝉があちらこちらで死に始めている。秋はまだ遠いが夏の終わりも近い。濃ゆい群青がかすれ、入道雲が削れてゆく。とうとういなくなってしまったのかも、とひとしれず照夜はプールサイドで涙ぐむ。推しは推せるときに推せ? うるせえ。夏の夜の藍が濃くにおう天井をにらめつけて照夜は舌を打つ。アイドルの握手会を目指すみたいに、もっと彼のために彼ごのみの文庫本を積めばよかったのだろうか?
かと思っていたら、とうとう断りもない別離をして16日目の夜に曙宗太郎はプールサイドに居た。照夜が本を投げ入れてから現れるのでなく、既にそこに居た。
16回目にもなれば、希望より防衛反応の方が先に出る。どうせいないだろうと思い込んで歩みを進め、そうして期待もせず、それこそ生前に縁のある場所を回遊し彷徨う幽霊化の如くプールにやってきていた照夜は、自身の視線の先に居る確かな存在──幽霊相手に『確かな存在』だなんて、皮肉かもしれないけれども──に目をうたがい、まぶたを頻りに擦った。消毒用のシャワーを浴びる道の途中で立ち尽くす照夜の影に気づいた宗太郎が、手を振ってくる。灰色の着物の袖が夜に揺れている。「まぼろしじゃないよ。幽霊だけど」そういう、幽霊にしか言えない悪質なジョークはやめてほしい。
照夜が駆け寄ると、宗太郎はどこか以前よりもずっと落ち着いたいろあいのまなこをさせて照夜を見つめていた。挨拶もなく、呼吸音だけを聞かせる夜空のため息が、ふたりの間をひゅぅるりとゆく。なんでいきなり消えたりなんかしたの、……幽霊にそれを聞くのは野暮かもしれない。だから、敢えて照夜は言った。さみしかった思いもひとしきりぶつけたい感情も殺して、ただ言った。「感想は?」
宗太郎が目を伏せる。
「言うまでもない。
……参ったよ。だってこれは僕の本だ」
着物の袖から覗くなましろい青年の手にはあの本が握られていた。16日前に照夜が惜しむ気持ちをこらえて宗太郎に渡した小説だ。背表紙が紺の紐で留められている。題名は、『明けの潮物語』とある。宗太郎は愛おしげに背表紙を撫で、声をふるわせていた。
「死ぬ前に死ぬ気で書き上げた話だ。死ぬ前にひとつくらい何か作品を書いておきたくて、気力をふり絞って書いた小説だ。神様に攫われてしまう前にさ、うつし世に爪痕を残したくてどうにか抗った爪痕なんだよ。……こんな綺麗に綴じた覚えはないから、こうやって本の形にしてくれたのは親戚のうちの誰かか、同じ家で書生やってた兄弟の誰かだろうな」
「……本当に? 宗太郎が書いたの? これを?」
「自分で書いた字はわかるよ、こうやって死んでも。ひらがなの書き方にさ。結構癖あって」
信じられない気持ちで、照夜は宗太郎がおもむろに開く小説の一頁を覗き込む。虹彩に映る文章はどれもが大切で、すきな一説だった。何度も何度も視線をゆき交いさせた記憶がよみがえり、照夜は無意識にほほ笑む。──『明けの潮物語』はひとりの少年が亡き父の形見を手に、生まれた場所からは遠い地で家族と過ごした父の生きざまを旅の道程を経て識ってゆく話だ。あまり長い話ではなく、癖のある字体さえ解読できれば2時間程度で物語の始めから終わりまでを見届けることができる。照夜はおさないころから永い物語を好んでよく文章を食んだものだけれど、それでも短編とさえいえる『明けの潮物語』がいっとう心にひびき記憶に残り続けているのは書かれている文章がやけにまなこに気持ちよく馴染み、言葉のならびや台詞の選択が読者に対して真摯で、著者の切実さが真に伝わってくる話であったからというのが大きい。……未だ信じられないけれども、死に間際の宗太郎が必死に書いた小説であるというのなら、頁伝いにあふれる切実さには納得ができるものだった。命を削って書いているからこそ、訴えられるものがここに在る。
それから16日間もの空白を埋めるように、照夜と宗太郎は言葉を交わしあった。夜が朝に移り変わるのをこんなにも惜しく感じるひと夜があるなんて照夜は識らなかった。『明けの潮物語』のどこが好きか、何を良いと感じたか、主人公の台詞の何がひびいたか、宗太郎に対し事細かに語って聞かせた。照夜の感想を絶え間なく耳もとに注がれた宗太郎は今までになく破顔し、ありがとうと何度も言った。また、ふたりですり合わせるように話をしてゆくと、照夜の父の旧名や生まれを辿るにつれ、宗太郎が照夜にとって高祖父の兄にあたる血縁関係にあることが発覚し、『明けの潮物語』がこのような形で代々細々と受け継がれてきたわけも察せられた。
「どうりで君だけに僕の姿が見えるわけだ。君の目に、僕の血が通っているからだろうね」
やがて、いっそ悲しくなるくらいに穏やかな声色でそう話す宗太郎の額の奥からは陽光がこぼれ始めていた。嗚呼、とその容赦のないひかりを前に照夜のくちもとから息が漏れる。終わりが近づいていることを強制的に理解させられる。小説の頁を進めるときのように、目をそらし続けていた現実が迫ってくる。小説を読み進めてゆくとともに必ず訪れるあの、左手に残る頁の厚みが消えてゆく感覚にひどく似ている。曙宗太郎の未練はなくなり、彼はもうこのプールに、かつて小説を書いていた病床に、居なくたっていい。だって照夜がすべてを証明してしまった。必死に爪を立てて足掻く手を、そっと剥がしてやってしまった。
「ありがとう照夜。……ほんとうにありがとう。何も残せなかった、何も叶わなかった、さもしいばかりの小説崩れしか形にできなかったとばかり思ってしがみついていた僕の諦念を、君はこんなにもやさしく、うつくしく、丁寧にはらってくれた。100年後にこんな報われ方をするなんて、悪霊まがいの僕は思わなかった」
「……宗太郎は悪霊なんかじゃない。……ぜったい悪霊なんかじゃ、……」
「君が持っていた素晴らしい小説を何冊も何冊もだめにさせた。立派な悪霊だろ」
ちがう。ちがう。それだけ、宗太郎と出逢える時間には唯一無二の価値が在った。好きな本の感想を語り合える一時が、何よりも勝って楽しかった。ひと夏の思い出に成るなんて狡い。儚い立ち回りを演出しないでほしい。そうやって言葉にしたい想いと気持ちが、嗚咽に飲み込まれて消えてゆく。もう太陽が昇るというのに、何もかもが間に合わない。照夜は泣きじゃくって声を上げた。たった二か月程度の関係だ。どこかへ出かけたわけでもなければ、何年もの間仲良くしていたわけでもない。そのはずなのに、こんなにも苦しくてつらい。こんな別れがあるのなら、この悲しさが本物なら、照夜はほんとうの悲しみなんてきっと識らないまま生きてきた。ほんとうの別れなんて識る由もないまま人生を終えられた。
宗太郎が、癇癪を起したおさなごを前にした際のように困った顔をする。好き勝手に我儘を言って留まってくれるのなら年甲斐もなくそうしたかった。然し、宗太郎は死者らしく照夜を置いていこうとする。まゆを下げて、そのまま、背の向こうにあるプールへと倒れようとする。宗太郎が、太陽に食われてその輪郭を失くしてゆく。
「どうか。──どうか君が。これからも、僕の書いた物語以上の傑作に出逢いませんように」
照夜は宗太郎の手をつかもうと追いかけるも、手のひらは当然空を切り、宗太郎の飛翔を止められない。踏みとどまれずに、照夜の体はプールサイドから共に水面へ落ちる。波がうまれ、飛沫が跳ね、泡が立つ。
水面から起き上がって水の中をいくら探しても、曙宗太郎はいなかった。濡れそぼった照夜の手には、乾いたようすでこれから先も何度だって読めそうな『明けの潮物語』だけがあった。