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鉄道こそ近代日本の象徴

東京の鉄道史で、戦後をとりあげるとしたら、それは多摩ニュータウン及び多摩田園都市の開発だろう。前者は公共主体。1963年の新住宅市街地開発法に基づいて計画され、そこに京王と小田急の路線が建設された。2900ヘクタールに約22万の人口が住む。人口増はすでに頭打ちとなっているが、稲城市、多摩市、八王子市、町田市にまでまたがる日本屈指の規模を誇り、ベビーブームがもたらした東京の住宅不足解消に貢献した。

その多摩丘陵の南側には、多摩田園都市がある。こちらは東急電鉄が主体となって開発した5000ヘクタールの郊外住宅地だ。グループの創始者・五島慶太は、溝の口から長津田の間に鉄道を開業させ、のちに中央林間まで延伸させた広大なエリアに約63万の人々を住まわせている。僕はどちらにも住んだことがある。好みはどちらかと言えば(多少、都心に出る不便はあるかもしれないが、郊外を楽しめる)ニュータウンかもしれない。鉄道の発展を牽引してきた郊外の都市開発。リモートが普通になりそうな時代にあって、もう一度見直されてもいいと思う。

※冒頭画像はGoogleアースを利用した東京駅・皇居周辺の地形図だ。東京都心の地形について語っている下記コラムより引用。
東京レントのコラム『東京都心10区の地形を読む』


鉄道ファンにとってのトリビア:砂利鉄道と未成線

さて、鉄道の話に戻そう。なかなか知られていない路線がある。ひとつが砂利鉄道。多摩川の中流から下流まで、東京都側だけでも十路線以上存在した。砂利は言うまでもなく、大量のコンクリート需要を支える材料である。西武多摩川線は、その砂利鉄道の生き残りで、現在は旅客輸送を行っている。しかし、砂利鉄道の大半はすでに廃線となり、その後に緑道として整備された場所もある。

もうひとつは「未成線」。敷設計画が未完成に終わった鉄道路線を指す。中でも、野心的な試みだったのは、東京山手急行電鉄。山手線の外側をぐるりと半周する計画だった。大井町を起点とし、雪が谷大塚や自由が丘を抜け、中野、板橋と続き、駒込駅で山手線と接続する。ここまでが半周であり、そののち、北千住から荒川に沿って、洲崎まで達する。今日的には、非常に有望な路線のように思える。しかし、建設にあたっては掘割や高架を建設、さらに高性能な車両が必要とされた。時代は、第一次世界大戦が終わった後の不況期の真っ只中。従来の鉄道の倍以上の費用を要した。

時勢は刻々と不利になる。日中戦争が始まった頃に至ると、もはや計画は頓挫した。幻に終わった第二の山手線は、当時、株式募集でも大盛況だっただけに残念である。

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下記画像は、後方に高架式の東急池上線五反田駅を見る。JR山手線のホームから見ている。次の記事から引用:『泡沫の夢と消えた幻の鉄道線「未成線」。廃線跡に続く新たな観光資源となるか』。記事文章も一部引用。

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【LIFULL HOME'S PRESS】
JR山手線・五反田駅のホームから品川方面を見ると、高架の上に東京急行電鉄池上線・五反田駅が見える。山手線をまたぐようにしてホームが作られたこの駅は、空中で唐突に路線が断ち切られたような、なんとも奇妙な構造になっている。この東急池上線、実は、白金まで延伸する計画があったことはあまり知られていない・・・この構造自体、将来の延伸を想定したものであった・・・当時、京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)が計画していた青山線と白金で接続する(はずだった)


首都・東京に、最初の軌道が敷かれる

ここからは、時代を一気にさかのぼってみよう。黒船ショックから20年経った明治5年、新橋―横浜間に日本初の鉄道が開業した。田町から品川にかけての区間は、海岸線の数十メートル沖合に築堤をして線路を敷いた。当時の新橋は、銀座や京橋のすぐ手前の地。絶妙な場所だった。列車は横浜までを53分で走破、一日九往復した。下等席の運賃が白米10キロと同じ、すなわち今日的な価値に換算すると一万円だった。

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上記画像は三井住友トラスト不動産の特設サイト「写真でひもとく街のなりたち」からの引用。多くの町が紹介されているが、同リンクは「芝」。


その後の鉄道開通は、しばし空白期間が生じる。その代わりに新橋から上野や浅草までを結ぶ馬車鉄道が開業した。道路の上に敷かれた鉄の上を馬車が走る仕組みだ。下記の画像とテキストは乗り物ニュースからの引用である。

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【東京の鉄道文化を決定づけた明治の決断 「外濠」が生み出した中央線】
東京の市街地に最初に開業した軌道交通は「馬車鉄道」です。1882(明治15)年に開業した東京馬車鉄道は、官設鉄道のターミナル・新橋駅前から出発し、商業の中心地である銀座、日本橋、上野を経由して東京最大の繁華街・浅草まで結ぶ、初の本格的な都市交通機関でした。しかし、動力に馬を用いる馬車鉄道は飼育に手間と費用がかかるうえ、周辺にふん尿をまき散らすなど衛生面の問題も多く、開業から10年ほどで動力を電気に切り替えようという動きが出始めます。東京馬車鉄道は社名を東京電車鉄道に改めると、1903(明治36)年から電車の運行を開始しました。


目的をもった貨物輸送として鉄道が始まる

明治16年、次の鉄道は上野と熊谷を結んだ。その翌年前橋まで延伸。群馬県富岡に政府がつくった富岡製糸場など、養蚕・製糸業が盛んな北関東と東京・横浜を鉄道で結び、国益に貢献することが期待された。

【鉄道路線誕生秘話】
今はJR(民営化前は国鉄)になっているが、設立当初は民営鉄道だった路線も多い。・・・(現在の)高崎線は華族士族らの資本で設立された(日本鉄道)。・・・青梅線は石灰石の輸送を目的に誕生。成田山新勝寺への参拝客輸送を目的とした成田線。横須賀線は言うまでもなく、軍港への輸送が目的。どの鉄道路線も設立当初には必ず敷設された理由がある。
 鉄路の"シルクロード" JR高崎線
 鉱石を運ぶために誕生した JR青梅線
 川砂利を積んで貨車が走った JR相模線
 信仰心は鉄路も通す JR成田線
 聖地に向かって延びた鉄路 近鉄天理線
 本州最北の民鉄敷設の意外な資金源 津軽鉄道
 鉄道建設のための鉄道線 JR武豊線
 線路の蛇行が歴史を語る 新京成電鉄
 日本海軍の命脈を担った JR横須賀線
など。

日本鉄道会社。これはかつて存在した日本最初の私鉄である。のちに国有化されてしまうが、あの岩倉具視らが参加した。路線は北に伸び、上野からの本線、そして品川からも敷設され、赤羽でひとつになった。日本鉄道は業績的にも成功、一年の営業益金が建設費の1割以上であったことから、日本全国で私鉄設立ブームが起こる。明治期の巨大プロジェクトは、何と「民」主導で進んだのである。

【日本鉄道:Wikipedia】
高島嘉右衛門は・・・政府要人の岩倉具視を説き、鍋島直大、蜂須賀茂韶をして明治天皇および当時の政府に『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青森あるいは東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走らせることを補す』ことを建言させた。こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめとする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定し、同年11月11日、設立特許条約書が下付され、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立された。もともと政府では井上勝をはじめとして、鉄道は国が敷設して国が保有すべきであるという意見が強かったが、西南戦争の出費などで財政が窮乏してしまったこともあり、民間資本を取り入れて鉄道を敷設することになった。

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上記画像は、北山敏和氏の「明治の巨大私鉄 日本鉄道」より引用、リンク先必見。トップページに同氏の「鉄道いまむかし」

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【東北本線の鉄道敷設を建議した高島嘉右衛門翁:岩手経済研究2020年11月号】
(上記写真の)実業家・高島嘉右衛門・・・は1832(天保3)年江戸に生まれ、開港間もない横浜で財を成し「高島易断」でも名を馳せました。・・・明治5年に開通した新橋―横浜間の鉄道敷設では、現在の横浜駅北部から桜木町駅南部一帯の埋立事業を行い横浜の市街地を形成するなど鉄道による発展に貢献しました。建議による(東京以北の)鉄道敷設は財政難などで頓挫しますが、賛同する岩倉ほか旧大名華族等による建設運動により日本初の私鉄「日本鉄道会社」が81(明治14)年に設立されました。

鉄道の歴史で興味深いのは、川越と青梅に早々に路線が開業したこと。これもまた貨物輸送の目的。青梅から立川へは石灰石輸送、川越から国分寺へは蚕糸・織物・お茶の輸送である。

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上記画像は、写真でみる「西武(鉄道)ヒストリー」より引用。リンク先はPDF。西武ホールディングの10周年特別コンテンツである。


ついに「都心」へと乗り入れる鉄道

武蔵野台地を東西に走る甲武鉄道は、開業当初、ローカル線のひとつくらいに思われていた。先行した日本鉄道会社の協力を得てスタート。新宿から八王子までを一日4往復し、荷貨物輸送が中心だった。

のちに、帝都中心部へと延伸しようとして、様々な困難にぶちあたる。たとえば新宿駅の東側には青山練兵場、皇室御料地(新宿御苑)、水道橋駅の南側には陸軍練兵場、そして赤坂離宮があった。それらを避けながらのルートを探したとき、南に切ったカーブを再び北に転じる必要があった。そのとき街道を横切るのは、用地買収の観点からかなりの厄介だった。

さらなる難題は地形。鉄道は、地面が上下の変化が苦手。谷底を選んで走るのが望ましい。甲武鉄道の延伸は、幸い、江戸城の外堀・真田豪が利用できた。そこから北上して、市谷豪、牛込豪を抜け、神田川と合流する。ここから東には本郷台地の開削が必要だった。こうしてできたのが、御茶ノ水駅である。人口密集地帯を避け、江戸時代の遺産をうまく活用した路線がついに万世橋まで開通する。

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上記画像は、僕がよく利用している『坂の町・東京の歴史散策。』のサイト。都心の鉄道史跡「波乱万丈な甲武鉄道と万世橋駅」より引用。東京の歴史を散歩で堪能する良質サイト。

今日では馴染みがないかもしれない。しかし、万世橋駅と言えば、甲武鉄道が東京市電につながるターミナル駅である。駅周辺エリア(神田須田町)は銀座と並ぶほどの繁華街へと成長したという。(明治45年)

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上記画像はリノベーションされた旧万世橋の建物を利用した商業施設。


都心を走るミニ山岳鉄道:山手線

さあ、いよいよ都心と言えば、山手線の話である。この環状線は、西半分が台地の谷底を走り、東半分が海沿いの低地を走っている。西半分の台地路線は文字通り、当時の人口密集地を避けた路線であり、貨物を横浜港へと輸送するのが使命だった。しかし、池袋駅が設置され、田端駅までつながると、山手線の東西が結ばれた。ちなみに、山手線では新宿・代々木の位置が最も高度が高くなる。

東半分では、東京駅の開業が最大のエポックだ。時はすでに大正に移っていた。丸の内一帯の広大な土地は、三菱財閥に払い下げられ、欧米風のビジネス街として再開発された。それまでは空地ばかりだったのが驚かされる。

西半分の底には渋谷がある。宮益坂と道玄坂にはさまれ、渋谷駅の位置はまさに谷底だ。そのため、のちの山手線は高架を走るようになった。郊外へ出ていく列車も同様。さらに、地下鉄・銀座線は表参道からやってきて、渋谷では突然地上に顔を出す。しかも、地上から見上げた位置だ。現在の渋谷は大改造の真っ只中。すでに地上階には鉄道はなく、空中駅あるいは地下駅となっている。

山手線にはかつて二箇所にトンネルがあった。ひとつは駒込から田端の間。谷田川があり、上野の不忍池に流れ込んでいる。線路はこれを横切っている。もうひとつは目黒。ここには三田用水があった。江戸時代からの水路は、飲用にも農業にも使われている。高い場所を維持して通しているため、これを崩すわけにはいかない。そこで鉄道の方が、下をくくるようになるわけだ。トンネルとは急に高さが変わってしまう地形で必要となる。

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上記画像は、『山手線はこんなに勾配がある!?』という記事からの引用だ。山手線が「ミニ山岳鉄道」と呼ばれる理由もよく分かる。


震災後の東京は、世界でも有数の鉄道都市圏へと成長

最後に、別の参考図書を用いて、各鉄道会社の紹介をしておこう。鉄道史を語る上で、極めて重要な出来事は関東大震災である。震災後、人々は郊外へ住むようになった。それと相前後して私鉄各社が郊外への路線を開業させた。田園都市線はその代名詞である。

【アイネストがお届けする、城南エリアの魅力いっぱいのコラム】
渋沢が提唱した田園都市構想をかたちにするため、田園都市株式会社が設立されたのは大正7年。当時、実業界の第一線を退いていたものの、イギリスの経済学者エベネザー・ハワードの提唱した「田園都市(ガーデンシティ)」を理想に掲げ、都市計画に投じたのです。実際に田園調布の街作りに取り組んだのは渋沢の四男である渋沢秀雄でした。


渋谷栄一の構想を実現させた田園都市線。のちの東急がこれである。目黒蒲田線が敷設され、田園調布駅とその住宅群が建設された。時期を同じくして、池上電気鉄道も開業。大地震に被災した人々を受け入れることになった。当時、東京から西側のこれらの地域は、まだ閑散としていたのである。


西武グループは不動産開発が先行した。さすがは、コクドの子会社である。彼らが鉄道に乗り出した当時は国分寺線をメインとし、川越と結んでいた。本来、川越であれば、大宮駅と結んで東京につなげたいはずだ。しかし、戦前の技術と資金力では、荒川に橋をかけることができなかった。

上記リンク先記事(Strainer- 決算・ビジネスニュースをシンプルに解説)より】
1912年(明治45年)に武蔵野鉄道が設立。これが西武鉄道の始まりとされています・・・当時、東京武蔵野では武蔵野鉄道と旧西武鉄道が2強となって拮抗していました。しかし、1939年(昭和14年)に東京市電(現在の都電)が池袋と護国寺の間で開通すると池袋駅が交通のハブとなり、武蔵野鉄道を利用する客が急増。終戦後の1945年(昭和20年)9月になると、武蔵野鉄道が旧西武鉄道を吸収合併することとなり、両社の競争は終止符を打ちます。

他方、池袋と飯能を結んだのは武蔵野鉄道。のちに西武傘下に入り、西武鉄道の大動脈となっている。もうひとつ、多摩湖鉄道。これらがすべて西武鉄道に統合したため、西武の路線は一見すると、複雑怪奇に見えてしまう。


遠くへのお出かけ路線(観光目的)として成立したのが、東武と小田急だ。東武は日光を、小田急は箱根を目指す。全線開通・電化・高速規格で誕生し、国鉄との競争にも勝って今日の地位を獲得している。


戦後になると、空港とを結ぶ路線がドル箱となる。川崎大師とつないでいた京急は、羽田空港へも拡張。のちには、成田空港と結ぶ京成線とも乗り入れとなり、空港アクセス線として、超有望路線に大化けした。


こうした私鉄はいずれも郊外へと路線を伸ばし、都市(首都圏)を拡張して、今日の関東鉄道圏を築き上げた。しかし、東京の鉄道にはもうひとつ大きな特徴がある。それは都心部への乗り入れである。歴史的には、郊外路線と市電路線との間に軌道の規格差があり、決して容易ではなかった。

実は、戦後、都内の地下鉄は「相互直通」を前提に計画されたものだ。都内の地下鉄建設は、営団と東京都交通局によって実施されること、そして郊外の私鉄は都心部への延伸ではなく相互直通を前提にすること。この国の決断により、山手線の内側が混乱することなく、かつ私鉄やその利用客にも恩恵のあるカタチで基本方針が決められた。これは非常に画期的なことである。


鉄道の歩みを振り返ると、民が力強く発展を主導し、国が巧みにコントロールしてきた歴史が見てとれる。日頃は、色々と文句ばかり言われる政治・行政だが、こと、鉄道に限って見るなら、先人たちの苦労と成果に対して、あらためて感謝を捧げたくなる。

ありがとうございました。コロナ禍で大変な時期だが、心からのエールを送りたい。


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