動画への苦手意識・読書のメリット

 最近気づいたことは、私はじーっと画面を見ることはあまり好きではない(苦手)だということ。

 これまで、趣味は2次元だし、アニメもちょくちょく見ていたのでそんなことないと思っていたのだけど、アニメの一気見をしたりや動画系サブスクリプションについて考えたことがきっかけでそう思うようになった。
 まずアニメの一気見は単純に目がしんどい。生理的な涙が出てきたりもする。それから動画系のサブスクは元をとることができない。(ここでいう基とはレンタルビデオ屋でレンタルしたときの値段と比べてということである。)それから、週一回のアニメは見るけどドラマはここ何年かほとんど見ていない。理由はアニメの30分(OPとかCM抜くと20分くらい)なら、ご飯を食べていたら見終わることができるけど、1時間のドラマはできない、これが理由だと思う。あとはあんまり長いシリーズだと、見終わる気がしないので見ようという気にならない。恋愛リアリティーショー(バチェラーとかテラスハウスとか)は気になるけど、以上の理由から見てない。
 友達と一緒だったら見る。こんな私にとって観賞会はいい機会だし、感想言い合ったり解説してもらいながら観るのは楽しい

 話は変わるが、私は読書が小学生の頃から好きで、特に現代小説を読むのが好きだった。しかしそれと同時に、読んだところで何になるのだろう、みたいな思いをいつの頃からか抱えるようになった。その時は、自分の心に残る、支えになるような一文やフレーズに出合うというのが読書の効果というかメリットのようなものだと考えていた。
 レンタルバイト中に、私にとって読書は現実世界を生きていくための補助機能のような役割を果たしていたのではないだろうかという仮説を立てた。私は昔から(誰にでもあることかもしれないが)、たまに人をぎょっとさせるような言動をすることがある。そのたびに、「普通」(常識と言い換え可能だと思う)の感覚をみにつけなければと強く反省していた。その方法の一つとして有効だったのが読書ではないかというわけだ。
 本は、様々な状況にいる主人公の気持ちの推移を事細かに知ることができる。それは現実世界で関わる人間の背景と気持ちを想像する有益な材料になる。もちろん、方法は読書だけではなく、自分で(特に人と関わる)経験を積み上げていくことや友人や知人と話すこともいこのような想像力や共感力を身に着けていく糧となるはずだ。しかしそれには限界がある・自分は一人しかいないし、出会える人間ましてや心情の動きを細かく知ることのできる人間の数もそう多くはない。(私は友達関係が苦手だったから余計にそうだと思う)。その点、本なら老若男女問わず様々な人間の心情や置かれている状況を知ることができる。これは日常生活ではほとんど不可能に近いと言ってことのはずだ。

 本を通じて人間を学び、現実への適応力を高めていった、といえるだろう。この10年くらい、ただ楽しみ、なんとなくいいことだと思って続けていた読書にこんな面が隠れていたとは知らなかった。後になって意味が分かるって、なんだか嬉しいなあ。

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