thema

テーマを決めて文章を書くことができないという話しをしようと思う。

自分の書く文章はタイトルがテーマを表してないことが多いと思う。なぜなら書いているうちに考えていることを書いてしまうから。

初めは書きたいと思っていたことをタイトルに据える。今日か、その前の日か、考えていて固まったものを書いていく。そのテーマが長く考えていたものだったらそれを全部詰め込もうとしちゃうし、ポッと思いついた軽いテーマだったら別のテーマも混ぜてごちゃごちゃの殻入りチャーハンみたいな感じになることもある。

どっちにしても、その文章は情報ではない。精製分離されていない思考の原油のようなものだ。本来他者に見せるような文章は多かれ少なかれ用途ごとに重いテーマと軽いテーマと分けて使うものだと思う。思考の原液。考えてることをそのまま夜のきまぐれ気分のまま好きな道具で殴って盛ったようなものだ。これを好き好んで読む人は海をスープのレシピとして飲める人だと思う。

書いていて気づいた。日常が混入しすぎるのは文章として質が高くなることには繋がらない。あまりにも日常に向かって離れすぎてて、日常の俯瞰から距離を取っていた自分が、いざ久しぶりに俯瞰を試みようとしたときに混ざり合わない海水が混じるのは当然と言えば当然だ。結果が石の混ざったオムライスだとするとそれを食えるのは作った本人だけだろう。

文章は非日常を語る。日常は文章なんかでは手懐けられないからだ。自分が日記を書くのが苦手なのは、その日常のディティールに圧倒されてしまうからなのかもしれない。書いても、書いても、その行間を文字で埋めたくなる衝動に駆られる。残すほどではない記述だとわかりつつ、他人に見せられる断片を切り取ってぽいと犬皿に放ることしかできない。犬はエサを味もわからず貪るだけだ。記憶と経験と、文字が詰まった私の肉を切り取って、切り取って、削ぎ落して、血を抜き白くなった肉片を犬にただ食わせるだけ。日常の切り売りは私を殺すも同然だ。

日常だけは語れない。日常だけは語らない。昨日も書いたけど、君たちは私の再生機ではない。日記と評しても伝わらない。未だ文字に為り得ない経験体験。或る人が言った「事象と心象の交わるところに文章」。それは未処理の経験を砂まみれに卸すことではない。私は経験に心象を混ぜ得ない。おこったこと、かんじたことをかきましょう。それが出来ずに今まで来たんだ。「かんじたこと」はじじつではないのか?感情だって事象ではないのか?主観と客観の判断はいつだって曖昧だ。目に映る客観は、いつだって主観なのだから。thema、テーマだ。ずっと考えていることだ。それはこうだ。「世界は知っている範囲でしか存在しないのではないか?」「しないよ」僕はそうとしか答えられない世界に生きている。私の世界に生きている。そもそも、前の問いが気持ちわるくて仕方ない。自明で自明だからだ。だからこそ、問わねばならない。ひょっとしたら、世界はもっと広くて、もっと「未知」で満ちているのではないか。その可能性に気づいたわたしの世界は、あれからずっと、壊れたままだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?