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創作まがい

いま、布団に寝っ転がって、板に気持ち悪いほどビッシリと、すき間なく敷き詰められたボタンを、計10本の長い突起物をくにゃらせ、おずおずとした連続性のあるようなないような動きで押し込んだり離したりしているところだ。

タイピングという作業を可及的客観的に描写したらこうなる。シンプルにグロい。
よくさ、「リズミカルにキーをタッチする」だの「軽やかに指がおどり、心地よい音が喫茶店に満ちる」だのと言った表現が出てくるが、まずもっておかしいと思う。だから大声で言ってみよう。勇気を持ってそこから始めるのだ。

タイピングは冷静に考えて、識字や発話と同じくらいの特殊技能である。
うちの地域では小学校から、情報の授業といういわゆる「ぱそこんであそぼ」の時間があった。そこで初めてキーボードとやらを見てもう10年になるのか。まあ、わかんないよね、使い方。
みんな最初はローマ字を覚えるところから始めたはずだ。下敷きに印刷されたローマ字 ― 日本語対応表を見て覚えたころがあるだろう。はじめはひらがなの打ち方がわからなかったはずだ。何を隠そう!と言いたいが、ネットの世界で隠すと言わないの境界は常限りなくあいまいだ。せいぜい都合のいいことだけ言いたいものである。つまり俺も分からなかったよはじめは。
当時のPCは起動に5分くらいかかっていたなと思い出すと、記憶を司る脳機能がここぞとばかりにアピールしてくる。思い出すという行為に快感を報酬にしたのはどこの誰なのか。ぜひ忘れる快感も実装してほしいものである。チャーリイ・ゴードンを見ていると切実にそう思う。
その後、高校で買ったものの回線が悪すぎてまともに使えなかったゲーミングPCでLINEをするぐらいしかタイピングの出番はなかった。見ながら打っても不便さなんてない。LINEをするような友達は少なかったからね。なんでPCでシャドバとFGOとLINEしかしてねえんだよ。無駄の極み乙女。

そして暇を持て余した大学生活。コロナオンラインドロップアウト。結果10万円を浪費したITスクール。ITって半角だとほっそいのに全角にすると急に素人感満載だ。
意識高いやつらがいたはいいものの、大勢と仲良くするだけの心的余裕も経験値もなかったし別に大したこと教わってないなと今では思う。きっと必要になってから覚えれば3日程度でいけただろう。一番仲良くなったのがコワーキングスペース()で寝泊まりしていた宿無し身元不明さんだったのはマジで謎。一緒に青春18で佐世保へ遊びに行ったりしたなあ。
結局、アカ消しと同時に連絡を取る術は消え失せてしまったけど。
まあ、他人と継続的な関係を保つことが苦手なのだろうな。知れてよかったことの一つだ。

閑話休題。
だが、閑話っていうほどつまらない話でもないだろう。俺は楽しかったぞ。むしろ思い出を語ることほど楽しいことはないと言える。
深夜だからか何なのか、あらゆる思考からすぐに芽が出て木になってしまう。人類が滅びた後のポストアポカリプス世界の衰退と侵食を早回しで見ている感覚だろうか。ポスアカ、いいよね。
また意味の分からない例えだ。寝てないと思考が飛び散る。

結局何が言いたいかというと、タイピングを本格的に身に着けたのはITスクールだということだ。
だがそれも、〇コなり社長とかいう、はじめしゃちょーのパチモンみたいな名前しといてバケモンみたいな意識高い系ビジネスパーソン of the ≪成長≫ の動画に触発された結果の独学で身に着けたものだ。
ずっと寿司打やってた。あれはゲームではないという言い訳がある分、歯止めが利かなくなるほどハマった。寿司打にハマれるのだから当時の思い詰め具合がわかるというものだ。
その後反動でシャドバしかやらない半年を過ごした。回線のない部屋を借り、大学を休学して駅やサイゼのWi-Fiでシャドバしまくった。寒いから10枚くらい重ね着してた。駅で重ね着、ベンチでPC。そしてシャドバ。
精神的限界きててセルフカットで丸刈りにしたりしてたから坊主も追加だ。もうその駅は使えない。一瞬だけ行ってたサークル女の二度見した表情が忘れられない。マジでつらくなってきた。

だれだよ、思い出すのが快楽とか言ったやつ。とりあえず〇そう。もう精神状態は不可逆的なところまで変質してしまった。もう―、戻れない―。お前と結婚するのは俺だと思ってた――。テレレレレー 『今夜』で検索。

30秒CM。動画を漁ったおかげでメンタルが復元しました。最近の技術はすごいですね。まあ、この動画は9年くらい前なんですが。

さっさと結論だけ話して終わりにしましょう。タイピングってやつは結構すごい技術だということです。まあ、こうやって文章を書くようになってから慣れてきたので、本当に使わないとできないんだな、ってゆうっすい感想です。まあ、この人生では初めてなので笑わないでください。
いちおう〆は終わりました。なんか流れで過去の事とか書いちゃったので今日中にうpしないと消しちゃうと思うのでね。いつ飽きてもいいように先制です。

そういえばタイトルに触れてないなと思ったのでそれだけは含めよう。
noteは創作まがいの行為だという一文を見かけた。本当にその通りだ。まがい物だ。
そもそも全ての創作物に意味なんてない。そもそも意味なんてものは共同体レベルで定義したとしても、つまり後世に託すとかきれいな言葉のスプレーで粉まぶしにしても、それは自分では決められないという帰結を逃れられない。
ていうか書くこと、語ることそのものが欺瞞だ。宮沢賢治やカフカを引き合いにしていたのでそれに則って開けかさない創作こそ尊ぶべきだと言ってみたい。
あと「ソクラテスやブッダやキリストは会話で~」という反論超無効ソースで叩きめされた。
これだってチラ裏に書いてればいいのに、誰かに読まれたいとか、忘れられたくないとかいう見栄や欲により運営されている。
あとこんな駄文でも、むしろ駄目駄目だからこそ体裁にこだわる。自分がこんなものを書いたと思われたくないという一心で修正を繰り返す。記事を消す。なかったことにできないと悟ったらネタに昇華させてでも払拭させることに躍起になる。これがクリエイターでなくて何だというのか。
創作に拘り、人目を気にする。クリエイターは臆病の代名詞で、創作は言い訳しかない。

つまるところ、創作とかクリエイターとかいう奴らは全員クズだな。向き合ってないよ。
偉そうに。そうだろ? そうなんだよ。このセリフは後々俺を苦しませるのさ。だからいいんだ。後払いみたいなものさ。むしろ出世払いかな。出世すればするほど重くなる、さながら累進課税。

これだってなんかずっとなんか書きなぐって発散したいけどいいタイトルを思いつけないからくすぶらせていた記憶に、借り物のタイトルをダシにしただけの紛い物だ。ほんと、くだらない。

まあいいさ。すべては文字の中。

何を間違えたのか、今じゃ文字の中

  ヨルシカ 『チノカテ』