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デンマークは何故移民に厳しいのか?

こんばんは、チェ・ブンブンです。
ブンブンは、大学時代、北欧研究会というサークルに所属していました。
意外かもしれませんが、ブンブンは中学、高校、大学と一度も映画関係のサークルや部活には所属していません。

元、北欧研究会の者としてどうしても北欧の話題は気になってしまうもの。先日、会社で東洋経済を読んでいたら、デンマーク政府が移民をバルト海のリンドホルム島に島流しすることを決めたという記事に遭遇しました。デンマークはずっと移民には断固反対な姿勢を取り続けているのだが、遂に倫理的に厳しすぎる爆弾を投下したのです。(2018/12/14《移民を「島流し」するデンマーク政府の神経島と本土をつなぐフェリーの名は「ウイルス」》参照)

あまりの非人道的な態度に嫌悪感を抱くことでしょう。実際に世界的に炎上している事件です。これがアメリカだったら、デンマーク以上に炎上したことでしょう。アメリカは先住民を移民が追い出して作ったような国なのだから。歴史的整合性を取るならば、後から来る移民は受け入れなければならない。だからこそドナルド・トランプに対して強烈な非難の業火がアメリカ国内だけでなく世界規模で巻き起こっている。

ただ、卒業論文でデンマークについて調べたブンブンからすると、デンマークの政策はある意味正しい選択なのではと感じる。デンマークは今や幸福度ランキング上位常連国ではあるが、そこまで行き着くにはあまりに壮絶な歴史を歩んできたのだから。ここでは、ブンブンの卒論《1970 年代 デンマークポルノ映画が ドグマ 95 に与えた影響》で執筆したデンマークの歴史の章を抜粋して(一部note用に修正)、ここに載せます。これを読むと、デンマークの気持ちが分かるかもしれません。

1. デンマークの誕生

デンマークは ヨーロッパ北部にある大小 483 に及ぶ島から成り立っている。大きさは九州ほど、人口は 2016 年時点で約 570 万人と兵庫県ほどの国である。野村武夫著『「生活大国」デンマーク の福祉政策』によると、

「国土の大半が肥沃で平坦な氷堆石(モレーン)による丘陵性の大地 が広がっており、そのうえデンマークの最高地点が約 170 メートルしかないため、国土の 90%が耕作に地に適している。(中略)カリブ海から流れて沿岸をめぐる暖流(北大西洋海: 通称メキシコ湾流)のおかげで最も寒い 2 月で平均気温がマイナス 2 度程度、最も暑い 7 月でも平均気温 17.8 度である。したがってヨーロッパ北部に位置するとはいえ、比較的穏 やかな気候に恵まれている。デンマークが世界有数の農業国となった原因としては、この ような地理的条件に恵まれたことが大きい」

とのこと。ほとんど同緯度であるロシアの 2 月の平均気温がマイナス 10 度であることから比較的温暖と言える。母国語はデンマーク 語で、主要宗教は福音ルーテル派である。福音ルーテル派とは、マルティン・ルターを主 導としたプロテスタントである。

デンマークの誕生は 8 世紀頃と言われている。浅野仁、牧野正憲、平林孝裕編「デンマ ークの歴史・文化・社会」によると次のように解説されている。


「ダンマーク(Danmark)〔デンマーク〕はデーン人のマルク(marc)の意味で、また 『マルク』という語の古い意味は、人の住まない境界地域であることから、ここでのマ ルクはユラン半島の最南部に広がる荒野の地域であったと思われる。一地方の名に過ぎ なかったこの『デーン人のマルク』が、次第にデーン人の居住域全体に適用されるよう になったのである。この現象は 900 年以前に生じていた、と推測されている。というも のも、アングロ=サクソン人のアルフレッド大王(在位 871-899)の翻訳書に、文献上初 めてデンマークという名称が現れているからである。」


当時のデンマークは、ヴァイキング時代であり、見知らぬ国へ航海を行い、略奪を行っ た。ヴァイキングが他の土地で略奪を行った背景について諸説あるが、主に一夫多妻制に よる人口増加説、商業技術の未整備による海賊行為の横行説が有力だとされている。

デーン人からなるヴァイキングは、イングランドやフランスの文化や技術等を略奪し た。そして、宗教も自国に取り入れた。かつてデンマークではアース神を信仰していたの だが、ヴァイキングの中にはキリスト教徒へ転身する者も多かった。ヴァイキングは当時の北欧政治も牛耳っていたため、やがてデンマークの人々はキリスト教徒へ転身していっ た。拍車をかけるように、キリスト教会は勢力拡大するべく北欧にアプローチを仕掛け る。

例えば、フランスの修道院で育ったアンスガーは数度にわたりデンマ ークやスウェーデンを訪れ、布教活動を行い、後にハンブルクの大司教になった彼は、当 時ヴァイキングが奴隷として扱っていたデンマーク人の少年達を買収する形で解放。解放 された少年達にキリスト教教育を施した。

そして、次第にデンマークの人々がキリスト教徒化していく中、さらにその動きを加速 させる出来事が発生した。11 世紀、オーロフ王が統治 する時代、長年に渡る大飢饉に見舞われた。人々は、全時代の王で敬虔なキリスト教徒の クヌーズ聖王が聖職者たちを賄う為に課した穀物やバター、卵といっ た食物に対する税に反発し殺した罰だと考えるようになる。そしてクヌーズ聖王を評価す るようになり、キリスト教への理解も浸透した。

2 .内乱の時代


しかしながら、デンマークでは内乱と侵略により不安定な時代が長く続いた。オーロフ の弟の息子クヌーズとオーロフの弟ニルスの息子マグヌス による政権争い、スラブ人移民ヴェンド人の襲撃で国は衰弱していた。 12 世紀後半、ヴァルデマ大王が積極的なヴェン ド人の侵略に対し応戦。和平協定を結び、ようやく平和の時代が訪れた。荒れ地を開墾 し、敵の侵略を防ぐためにシェラン島南部ヴォーディングボーや小さな漁村ハウンにまで 砦を築きあげた。そして、国力を上げていき、1219 年にエストニアを征服。北ドイツも支 配に成功しデンマークは「バルト海の覇者」と呼ばれるようになった。14 世紀になると、ハ ンザ諸都市がデンマークを敵視するスウェーデン等を取り込み 77 都市に及ぶ大同盟を結 び再び苦境に立たされる。対抗すべく 1397 年、デンマークはスウェーデン、ノルウェー とカルマル同盟が結ばれ、有事の際に支援し合う関係を構築した。

15 世紀に入るとグーテンベルクが活版印刷術を発明、1495 年に『デンマーク韻文年代記』がデンマーク初の書物として出版される。活版印 刷術のおかげで、聖書も庶民の手に渡るようになった。そして、16 世紀初頭、教会に対す る批判が集まるようになった。そして、サン・ピエトロ大聖堂建築費用を集める為に、贖 宥状を販売することに対し、マルティン・ルターを中心に批判 の声が強まり宗教改革が始まった。ルター派のクリスチャン 3 世がデンマーク王に就いたことから、本国でも宗教改革が積極的に行われた。 まず、カソリックの司教を投獄。教会の礼拝・歌唱はラテン語からデンマーク語に変更と なった。この改革以後、デンマークの国教は現在に至るまで福音ルーテル派となった。や がてカソリックとプロテスタントの軋轢は大きな溝を生み、1618 年からヨーロッパ広範囲に及び三十年戦争が勃発した。

当時デンマーク王であった、クリスチャン 4 世 はルター派であった為、プロテスタント側につい た。30 年にも及ぶ長い戦争で国力は疲弊し、終戦後国土の多くが無人となり、デンマーク は多大なる債務も抱えることとなった。そこで 1660 年、フレゼリク 3 世は世襲王国となり、全国民から税を徴収するシステムを構築。新 態勢で新しい時代を迎えようとした。しかし、新体制は成功しているとは言い難いもので あった。戦争にはいくつか勝利はしていたものの、官僚は汚職にまみれ、街にはゴミが溢 れる。本が徹底的に検閲されデンマークの文化は退行していた。その一方でクリスチャン 7 世が専属の医者ドイツ人医師ストルーウンセ と共に出版の自由、拷問の廃止を行い、少しずつデ ンマーク情勢は改善されていった。

3 欧州動乱の渦中のデンマーク


デンマークに平穏が訪れる 19 世紀、今度はナポレオンがヨーロッパ侵略を活発化さ せ、フランスとイギリスが対立する構造が生まれる。そしてデンマークはどちら側の味方 につくかで苦渋の選択を迫られる。そして、イギリス側につくことを決断したデンマーク であったが、イギリス側の誤解により、デンマークが敵視され砲撃、窮地に立たされた。 ナポレオン軍の救済により、征服こそ免れたものの、ノルウェーを失う。また、多額な借 金を抱え、国内ではインフレが横行。イギリスがデンマークの産物を締め出したことで、 長年貧しい状況を抜け出せずにいた。貧しい国故に、周辺諸国の様子を伺う外交が中心を 占めるようになり、時としてヨーロッパ情勢の渦中へ飲み込まれるようになる。

第一次世 界大戦において、デンマークは、中立の立場に立ち、食料をドイツ、イギリスに提供し た。またノルウェー、スウェーデン政府と会談を開き、スカンジナヴィア諸国の連帯を図 った。1929 年アメリカから始まった世界恐慌により、不況の波がヨーロッパにも押し寄せ ると、デンマークの食料品輸出量が激減し農業危機が発生する。

ヒトラー台頭により、1940 年デンマークはナチス・ドイツに 占領される。ドイツ軍に抵抗するべくレジスタンスが結成されたものの、密告者により粛 清され、またユダヤ人狩りで多くの国民が犠牲となった。戦後、デンマークはアメリカの マーシャル・プランによる援助で少しずつ復興を目指す。世界恐慌時に不況対策として、 スタインケ社会大臣が築き上げた社会保障制度を守り 着実に成果を上げてきた。徹底的な所得再分配と工業に政府は力を入れた。野村武夫著 「『生活大国』デンマークの福祉政策」によると

「1950 年代後半から 60 年代には平均経済 成長率が年 5%に達するという黄金期を迎えた。」

とのこと。また、1960 年代に介護が 必要な高齢者用の老人ホームのような施設「プライイェム」が整備されたことで、次第に福祉が整っていった。そして、1978 年「男女雇用平等法」制定により女性の地位が向上。地方分権化を積極的に行うことで、公共サービス事業の雇用創出に繋げた。

そして、1993 年に EU に加盟するものの、福祉サービスの質を維持するためにユーロ導入を見送った。2012 年、2013 年連続、国連の持続可能な開発ソリューション・ネットワークが発表する世界幸 福度ランキングで 1 位を獲得し、2015 年は 3 位へと下落するものの、2016 年には再び 1 位に返り咲き、国民の多くが幸福を感じている国となった注4。近年福祉国家の質低下を防 ぐため、移民や難民の受け入れをレバノン等の規制するようになり、2015年 9 月、移民・統 合・住宅省はレバノンの新聞に難民流入阻止広告を載せ、物議を醸した。

・最後に

このようにデンマークの歴史を紐解くと、ヴァイキングに侵略され、フランスとイギリスの戦争の板挟みや宗教戦争の末に国が疲弊し、ナチスの侵攻もあった。デンマーク史は常に、他国の騒動に巻き込まれていたのです。だからこそ、外から来る脅威には警戒を抱くのではないでしょうか。イギリスはEUを離脱することで、EUの移民押し付け合戦から逃げているのに対し、デンマークは島流しという形で強くNO!の声を掲げたといえます。

さて、日本では、少子高齢化や2020年東京五輪に向けて深刻な人材不足を受けて、11月に出入国管理法改正案が衆議院を可決しました。と同時にネットでは、中国、ベトナム、フィリピン等の出稼ぎ労働者の過酷過ぎる日本での労働環境がリークされていきました。

個人的に、容易な移民受け入れは日本にとっても外国人にとっても不幸しか生まないと考えています。

外国人労働者からすれば、悲惨な現状に対する一抹の光を求めて日本に来ることでしょう。十分な能力を持っていなかろうと、重病を患っていようと、藁にもすがるような思いでやって来ることでしょう。彼らだって、所詮外国に渡っても大した仕事はできない。過酷だということは頭の片隅にあります。しかし、背水の陣になっている、失うものは何もない状態において、外国に渡るのは唯一残された幸せになる方法。だから、外国に渡ります。微かな夢を見て。しかし、十分な知識も能力もないので、待っているのは単純労働のみ。文化的知識がないので、粗相をしてしまい現地人との軋轢が生まれる。それが現地人と移民の間で憎悪となっていき、差別が生まれる。しまいには互いに憎しみ合うようになります。

どうでしょうか?こう考えると、デンマークの決断は、ある意味、増幅する不幸を最小限に抑える政策な気がしてきませんか。もちろん、ブンブンだって受け入れがたい部分もあるのですが、一つのアイデアとして参考になると思います。

それではまた!

※卒業論文全文は、映画ブログ『チェ・ブンブンのティーマ』の自己紹介ページ真ん中付近にあります。無料ですので、興味あればご自由にお読みください。

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