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感想「映画を早送りで観る人たち」

稲田豊史「映画を早送りで観る人たち」

Twitterのタイムラインで今、ある本が話題となっている。

それが「映画を早送りで観る人たち」である。本書は元映画配給会社ギャガの職員で、キネマ旬報社のDVD業界誌の編集長をも経験している稲田豊史が現代ビジネスに寄稿した内容を加筆編集したもの。

映画ファンの間では、定期的に映画を早送りで観ることに対して物議を醸している。しかし、2021年に映画を無断で圧縮紹介した「ファスト映画」の摘発をきっかけに、映画を早く観る文化が浸透していることを否が応でも事実として突きつけられた。

映画ライターとして活動し、他のライターさんや映画配給会社さんとお話しする機会が多いのだが、皆こぞって「現代人は時間がない。いかに文章や映画を観てもらうのか。工夫しなければいけない。」と語っている。映画ライター界の場合、「共感型」メディアへのシフトが課題としてあり、いかに映画を観た読者を共感させるかに注力することが求められるようになった。後者の場合は、映画ファンからはダサいと言われても副題に長々しくあらすじを書いたり、ポスターに説明文をぎっちり入れたりすることを余儀なくされている。

では映画を早送りする人は、映画ファンにとっての敵なのか?

個人的には、なぜ現代人は映画を早送りにするのか?不気味の谷にいる人を頭ごなしに否定しても何も変わらない。行動原理に歩み寄ることで他者を理解し、新しい映画興行のあり方、文化が作られるのではないだろうか?

稲田豊史の本書が良いところは、この歩み寄りである。彼がDVD業界誌の編集部にいた頃、会議前に大量に映画を観る必要があり倍速視聴していたことを告白した上で、それでも青山学院の生徒128名にインタビューしたところ9割ものの人が早送り視聴や10秒飛ばし機能を使ったことがあると答えた事実に驚愕している。

しかし、何か理由があるに違いないと、自身の拒絶反応と対峙しながら文を進めていく様子は見習わないといけないと感じる。相手の行動に歩み寄ることで真実と出会えるからだ。実際に、本書では強烈なタイトルに対して、守備範囲が非常に広い。早送り視聴が日本国内だけの話ではない件から、評論本が売れなくなった理由、そしてゲーム実況文化にまで踏み込んでいるのである。どのエピソードも強烈であると共に、一応のZ世代である私にとって、もはや文化となってしまった要素があることに気付かされる。発見が多かった。次章からは具体的な話について書いていく。

■稲田豊史「映画を早送りで観る人たち」概要

なぜ映画や映像を早送り再生しながら観る人がいるのか――。
なんのために? それで作品を味わったといえるのか?
著者の大きな違和感と疑問から始まった取材は、
やがてそうせざるを得ない切実さがこの社会を覆っているという
事実に突き当たる。一体何がそうした視聴スタイルを生んだのか?
いま映像や出版コンテンツはどのように受容されているのか?
あまりに巨大すぎる消費社会の実態をあぶり出す意欲作。

Amazonより引用

少ない時間、膨大な作品数

小学生の頃、話題に乗れないとクラスから孤立する現象を目の当たりにしてきた。「NARUTO -ナルト-」や「遊☆戯☆王」、「トリビアの泉」を観ているかどうかがヒエラルキーを決めていた。

まだ、2000年代初頭の時に触れるべき作品は少なかった。しかしSNSが発達し、高校、大学、社会人での関係性が繋がり、Amazon Prime VideoやNetflixなどといった定額見放題のプラットフォームで次々と新作が公開されると、話題に乗るために膨大な作品数を観る必要が出てきた。しかしサラリーマンはもちろん、学生も今は忙しい。日本も随分貧しい国となったため、大学生は授業の合間にアルバイトをしなければならない。それは遊ぶ金ではなく、生活費として使用される。わずかな時間で膨大な作品を観るとなった時に、時間短縮の術として「早送り」、「10秒飛ばし」が使われるようになった。Z世代は、特に日頃から「効率化」することを美徳として刷り込まれている。私が大学時代の時は「速読」が流行しており、自分も1日1冊ペースで速読していた記憶がある。「観た」という実績があれば、会話に参加できることから、流しで話を追い、面白かったらじっくり観る、テイスティングの要素が強まってきたのである。

確かに、この話を聞いてふと映画のオフ会に行った時を思い出した。「映画を1万本観た。今年は千本観た。」と豪語する主催者格の人がいて、話を聞いたのだが、イマイチ映画に対する情熱を感じなかった。よくよく聞くと、映画を1.5倍速視聴していたのだ。この時はよくわからなかったが、これはどんな映画の話を振られても会話に参加できますよというアピールだったのかもしれない。そして、このオフ会は映画を芸術として理論的に語る場ではなく、映画を通じた単なる出会いの場だったため、同じ映画を観て共感することが重要だったのだ。だから、主催者格の人は本数を重要視していたと言えよう。

評論を嫌う世界

「映画を早送りで観る人たち」によると、今や映画の評論本は売れないとのこと。日本でトップクラスの映画評論家の本が初版で3,000部しか売れないのだという。理由は幾つかあり、

・知らない誰かが自分の好きな映画を批判するのに耐えられない。
・インターネットに評論(という名の感想)が沢山転がっている。
・監督や文脈で映画を観るのはコスパが悪い。
etc…

などといったことが挙げられる。確かに、映画評論家が理論をこねくり回して書いた本はあまり面白いと思ったことがなく、蓮實重彦や淀川長治よりかはFilmarksで書かれているシネフィルの感想や済藤鉄腸さんのブログKnights of Odessaさんのnote、そして映画の専門家ではない動画配信者の感想(例:のばまん、からすま、文野環etc…)の方が参考になったりする。

確かに、映画ライターとして評論本を読むことはあり、遠山純生「“アメリカ映画史”再構築: 社会派ドキュメンタリーからブロックバスターまで」の『デイヴィッド・ホルツマンの日記』論は自分のYouTube観に多大な影響を与える名著であったが、かなり専門的なのとある程度の知識を必要とするため、気軽にオススメできる内容とは言い難い。恐らく、ライトに映画を楽しみたい人からすれば、「よくわからない人が書いた本なんて意味ない」とバッサリ切り捨てられるだろう。

この文脈を踏まえると、共感型記事がライター界でもてはやされるのも納得がいく。Web記事も今やあらゆるメディアがスキマ時間を奪い合う戦争状態において厳しい状況である。大きな媒体でもPVが出せないことがザラにあるらしい。PV至上主義であるライター界は、大衆の動向に敏感であり、ストレス社会を生きる現代人にとって、ストレスなく読める共感のメディアを作るようになった。個人的には、寄稿時には当然歩みよるものの、 ライトな共感型メディアが氾濫するこの状況が良いとは思っていないので、ギミックを隠し入れながら抵抗していたりする。

ゲーム実況とファスト映画

現代人が時間に追われているのは、映画を通常の速度で観る映画ファンにとっても同様だ。次々と現れる新作を労働の合間に観るので、休日は多忙を極めるであろう。本書は、映画文化とは別の切り口を織り交ぜることで、そのことに気付かされる。

それはゲーム実況文化だ。ニコニコ動画やYouTubeでは人気ゲームソフトから、いわゆるクソゲーと呼ばれる駄作までを饒舌な語り口でプレイし紹介する実況者が数多いる。任天堂をはじめ、ゲーム会社もある一定の範囲内で配信及び収益化を許可していて、WIN-WINの関係が構築されている。

自分がまさにゲーム実況動画のヘビーユーザーであり、ゲームをプレイしなくなった高校時代頃から実況動画を楽しんでいる。映画と違ってゲームはクリアまでのプレイ時間をコントロールできない。だから上手い人に代わりにプレイしてもらい、それを楽しむのである。元々、よゐこ有野晋哉がファミコンゲームを攻略する「ゲームセンターCX」が好きだった私にとって罪悪感はなかった。社会人になると、IT企業勤務ということもあり、ゲーム好きな社員と話を合わせる必要が出てきたので、より本書でいう「消費」としてゲームの実況動画を観ることが多くなった。

からすまAチャンネルで「メジャーパーフェクトクローザー」、「デスクリムゾン」、「GUNDAM 0079 THE WAR FOR EARTH」などといった有名作品を知り、RTA in JAPANの動画で流行作の動向を学んだ。

恐らく、ゲーム界隈からしたら私は映画を早送りする人と変わらないのだろう。

これを踏まえると、現代人の時間の使い方に歩み寄った作劇やマーケティングを行う必要がある。確かに、ジャンプアニメの原作の台詞をそのまま踏襲し、全て説明してしまう演出は良いとは言えない。だが、例に挙げられている「逃げるは恥だが役に立つ」の野木亜紀子のように、説明台詞の中に社会問題を織り交ぜることによる成功には学ぶものがあるだろう。

流石にファスト映画を公式の販促メディアにしてみてはという意見に関しては、確かに『バーフバリ 王の凱旋』公開時に出された前作のダイジェスト映像のような例もあるけれども、抵抗はかなりある。

自分が高校時代、陸上部で忙しい日々を送っていた頃、学校までの往復の時間、huluで『復讐するは我にあり』や『マンダレイ』などをを観ていた。これを映画祭ボランティアやオフ会で年配の映画ファンに話したら変な顔された。映画館原理主義者だったのだ。個人的には今でもそれには違和感しかない。サブスクは、映画館が近くにない人にも等しく映画に触れるチャンスを与える存在であり、映画館原理主義者は結局のところ都心部に住んでいてお金も時間もある人が偉そうにしているようにしか見えないから受け入れ難いものがある。無論、映画館で観た方がいい作品があるのは承知の上でだが。

しかし映像の見方にある程度寛容であると思っていた私も、1時間ドラマを5分半で観る『ゴダール・ソシアリスム』の予告編的作品の接し方に不気味さを覚える今。時代の移ろいに背筋が凍りつつも、振り返ってみたら自分も同じ穴の住人であることに気づきオイディプス王さながら辛くなった。

少なくとも、現実はミヒャエル・エンデ「モモ」の時間泥棒像より凶悪になってしまった時代であり、『コングレス未来学会議』で描かれたように映画文化が衰退して、時間を溶解する薬と化る時代の足音が聞こえてくるのであった。なんて恐ろしい時代なんでしょう。


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