飛べない豚でも飛べない鳥よりは気が楽だ。この社会は飛べない鳥には生きずらい。一見飛べそうなのに飛べない。その乖離が劣等感に繋がる。 飛べない鳥は飛ぶ努力をするのではなく、自分の得意を伸ばせばいい。そうすればダチョウにもペンギンにもクジャクにもなれる。
お前の前世水色か!
3時半の顔まねすんのやめろ!
ルービックキューブで5面揃ったなら6面揃ってるやろ!
床屋で注文するときえりんぎの写真でも見せたんか!
アンパンマンの考察動画でもやってんのか! #絶対使わないツッコミシリーズ
パピコの蓋で盃交わしたみたいに言うな!
お前の母ちゃんミノカサゴか!
○○2.0と書かれた物をよく目にする。この2.0はver.2.0といった意味だ。しかし、最近では新しい考えや新しい物にも強引に○○2.0と付けて表記されたものもよく目にする。そのうち新玉ねぎのことも玉ねぎ2.0とか言い始めそうで怖い。
営業成績が上がらない。なぜだ。 本当にニーズのあるものは営業なんかしなくても自然と売れるものだ。口コミが口コミを呼び広告宣伝なしで売れていくのと同じだ。我々営業マンの仕事は空の箱を宝箱だと思わせて売る仕事なのだ。 営業成績の上がらないわたしは、空の箱が宝箱だと思わせることはいい事なのかをいつも考えている。確かに空の箱を買って喜ぶお客様もいる。それは大きく3つに分類できる。 ①中身が無いことに気付いていない ②中身が無いことを知っていて喜んでいる ③空の箱を欲している 上記の
最近の学生は皆カバンにキーホルダーを付けている。それを見てわたしは懐古した。 わたしは学生時代カバンにキーホルダーを付けるのが怖かった。他人から印象を持たれることを恐れた。変な趣味と思われるのは当然嫌であり、同じ趣味だと言って仲良くもない人に近づかれても困る。また、周りは何も思わなくても自分では、まるで床屋に行った翌日のように、変だと思われてないか心配でどこか落ち着かなくなる。精神衛生上良くないのだ。それならばつけない方がいいと思う。それなのに最近の学生の多くはカバンにキー
綺麗な薔薇には刺がある。綺麗な人にも恐ろしい部分があり、外見に惑わされると痛い目を見るという意味だ。わたしはこの言葉を目にしたとき本当は違う意味ではないかと考えた。 前提として全ての薔薇が美しい訳では無い。形が歪な薔薇もある。綺麗な薔薇には刺があると言うが、綺麗でない薔薇にも刺はある。綺麗でない薔薇はそもそも注目されない。棘があることにさえ誰も気付かないのだ。長所があるから短所に目が行くのだ。誰かに棘を指摘されたときわたしは薔薇なのだと実感する。
わたしは窓際で観葉植物を育てています。 観葉植物にはリラックス効果や部屋を彩る効果がありますが、もう一つだけ役割を担ってくれています。それは心の可視化です。心に余裕があるときは視野が広がり、観葉植物への水やりやミスティングを行います。しかし、忙しいと心に余裕が無くなってしまい、観葉植物の世話を忘れてしまいます。元気の無くなった植物を見て自分の余裕がないことに気付けるのです。 わたしは余裕が無いと分かった時は意識的にひとりの時間を取ったり早めに寝るなどの対処をしています。人と
今日はハンバーグを作ったよ。肉をこねているとき、ふとこの牛や豚は自分たちが調理される未来を想像していたのか気になった。なぜなら、わたしはわたしが死んだ後にどうなるかなど微塵も興味がないからだ。 人間は皆平等である。 誰かがそんなことを言っていたが私はそう思わない。若くして病気で亡くなる人や家族に見捨てられた子供。一方で、生まれた家が裕福な人。前者が不幸と決め付ける訳ではない。だが、果たして平等と言えるだろうか。 ただ、皆に共通して平等に訪れるものもある。それが『死』だ。