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ゆとり世代と土曜日の生き方

ゆとりといわれる世代に生まれて来て、私たちは土曜日の生き方を選択する自由を与えられた。

卒業式でそういった生徒会長の言葉を思い出す。

働き始めて約1年が経とうとしている。
これまでの土曜日、僕は最高の選択をしてこれているのだろうか?

ぶっちゃけると寝てばっかりだし、飲んでばっかりだ。
僕の腹部は今日も健やかに育っている。第二次成長期だ。

金曜日は華金と浮かれて、明け方近くまでみんなと飲む。
会社のみんなとも、大学時代の友人とも。

カラオケ好きとカラオケ嫌いが、居酒屋カラオケ論争を繰り広げ、
気づけば朝を迎えている。

明け方家に着くと夕方まで泥のように眠り、
洗濯と掃除をして、ウーバーイーツで昼とも夜とも言えないご飯を食べる。

そんな日ばっかりだ。

こんな土曜日を過ごしてばかりいるから、
「これだからゆとりは」と罵られてしまうのだろうか。

こんな怠惰な土曜日を過ごしてしまうのはおかしい。
今までの僕は、土曜日の生き方を選択して過ごしていたのだろうか。

小学生は猿だったので割愛する。

中学生や高校生の時はどうだろう。
土日は大抵、部活や塾、予備校に消えていった。
一度はいったらそう簡単には抜けられない。
抜けなければならないとすら思わない。
枠組みの中にいたためか、あまり土曜日の自由を感じる瞬間はなかった。

いや違う。僕は土曜日をどう過ごしたという選択をしたのではなく、
学生生活をどこの所属で過ごすかを選択しただけだ。
失った土曜日は、その代償だ。

抜け出す意志の強さが僕にはなかった。
この時には、枠組みの中で生きることに慣れ始めてしまっていたのだ。
枠の中で生きなければならないと、盛大な勘違いをしてしまっていたのだ。

大学生になっても僕は、その勘違いを遺憾なく発揮した。
サークル、アルバイト。
サークルは別段やめる理由がなければ続けていいるのが自然な流れだ。
アルバイトも人間関係でも悪くなければ、辞めたい理由なんてそう思い浮かばない。

選択する自由について考えるのではなく、選択肢がないことの安心感に浸って生きていたのだ。

空いた時間があれば、サークルの仲間と遊ぶか、
遊ぶ金のためにアルバイトに時間を使うか、大学の課題をこなすかだ。
やることがあるだけで充実だと思っていた。

人間に飼われている動物のようだな。と思った。
囲われて生きている。
課題や仕事という使命を与えられ、社会に媚を売っていれば充実という餌をもらえる。
(気を悪くした人がいたらごめんなさい。僕は自分を責めているだけです。)

僕は大学を卒業するまでの間、
土曜日つまるところ休日の自由について考える必要なんてなかったのだ。
むしろゆとりに飼い馴らされていた。

土曜日を選択する自由について触れていいのは、
あの時の生徒会長のように、自分の人生についてちゃんと考えられるようになった人だけだった。
大学生の頃の僕は、生徒会長よりもずっと、精神的に幼かった。

社会人となった今はどうだろう。
僕が働く会社は週5日、10時から19時までは仕事を行わなければならない。

自分のために使うことができるのは、
朝起きてから会社に行くまでのほんの数時間。
退勤から就寝までの本の数時間。そして、土曜日と日曜日、あとは祝日くらいだ。

僕らはこれらの時間についてもう少し真剣に考えた方がいいかもしれない。
今回これを書いているのもそう思ったからだ。

勉強しろ、自分の夢に向かって努力しろ。
そんな説教くさいことを言うつもりは一切ない。

ただ、与えられた問いに答えるだけの毎日が繰り返され、ものすごいスピードで一年が終わり、
ものすごいスピードで退職をむかえたとしよう。その時に何が残っているのか、僕は不安になってしまったのだ。

これを読んでくれている人も考えて欲しい。
時間はいつだって残酷なほどに平等だ。
死ぬタイミングはわからないけれど、今という時間を生きている人には、その今が等しく手渡される。

人生はいつ終わりを迎えるかわからない。いつまで続いているのかもわからない。

きっとこれを読んでくれている人たちにも、
土曜日や休日をどう生きるか選択する自由が与えられているはずだ。

正解なんてきっとないけれど、あなたが過ごしている休日が
あなたにとって価値のあるものなのかを考えてくれたら嬉しく思う。

まぁ、

そんなこと一切関係なく
死ぬほど面白いと思えることができているのなら、いつ死んじゃってもいいかな。
なんてことも考えたりするのだけれどね。

だから休みなしで死ぬほど面白がって仕事している人たちを
いいなぁって思って見ているよ。がんばります。


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