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フォルケホイスコーレのファンである#3

指にタコができるほど書いてきたが、私は3年前デンマークのフォルケホイスコーレという全寮制の成人向け学校に10ヶ月間留学してきた。帰国して2年以上が過ぎ、当初の深いノスタルジーが今は新しい日本的なホイスコーレの意味を考える原料のように働いていることを感じている。
日本的にフォルケホイスコーレの紹介を見ると、寄宿生の成人向け大学、などのように書かれているが、実際のバリエーションは一言では言えないほど広いと思う。私のいたロンデホイスコーレはその中でも、高校を卒業したデンマーク人の若者が将来の就業に向けてかなり専門的な体験を積むことのできる学校だった。学期のメインのコースは高等教育への準備コースと位置付けられ、ジャーナリズム、医療、教育、ビジネスといったものがあった。その他に音楽やヨガ、アウトドアなど自由に選択できる科目がこれまた沢山あった。
デンマークでは国民一人一人がきちんと働いて高い税金を納めることで高福祉社会を実現しているので、若者が職に就くためには非常に手厚いフォローがあるようだ。一方で若者にとってもかなりのプレッシャーになっているのではないかと感じる時があった。失業していてもホームレスになったとしても生きていくには困らない補償がある。しかし好んでそれを望む人は多くないだろう。デンマークも歴史的には働いて社会に貢献した人に価値を置いていたのだ。
日本だったらと考えることが多くなった。そして自分があまり日本のことを知らないということにも気付かされているのだが、例えば、生産性を上げないと「生き残れない」という発想が思い当たる。いや普通でしょ、といままで疑うこともなかったこの発想はデンマークにいる時には実はまったく動じなかった。今こうして帰国してあれこれ悩むようになってからそれに気がつき始めているのだ。スピード感、選択と集中、リーダーシップを発揮する、これらは生産性を上げて生き残るためのキーワードとして私の中に深く焼き付いている。これらはまさに「生き残る」ための正解として鎮座している。しかし最近になって浮かんでくるのは、人は「生き残るために生きている」のだろうかという素朴な問いである。昔、学生だった頃に先輩が言った言葉がある。「人は生きるために生きているんだ。」それはちょっと青春くさい言葉だったが、「生き残る」ためではなかった。生き残るために我慢するのではなく、生きるためにワクワクしたり冒険したりする、という意味だったと思う。いずれにしてもそこに「幸福」の原点があったのだろう。それが社会人になったら「生き残るため」に変わってしまった。どうもこのへんをどう扱うかが日本とデンマークの違いにあるのではないか。
全国民にしっかりと働いてもらい、高い税金を納めてもらい、手厚い社会保障を分配するには、その全国民が「幸福」を感じることが必要だと。ところが国民は一人ひとりが全然違う。同じレールを走って同じタイミングで同じ生産性を身につけることは不可能だ。だから、自分の特性をしっかりと見極めて現実の職業に見合うところを自分から寄せてゆく、職業の方もいろいろな特性の人が働けるようにケースバイケースで寄せてゆく、その過程には対話とチャレンジが積み上げられ、その結果には社会に貢献できるチャンスの広がりがある。個人の価値がこのように上がってゆく。
この中に、フォルケホイスコーレが担っている役割がかなり広く存在しているように思う。それが教育の一部としてのフォルケホイスコーレなのだろうと今は理解している。

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