1円玉の分析

 いま、王冠主義という剣をとり、目の前にある1円玉を切り開いてみよう。私たちが見ている1円玉とは、いったい何なのだろうか?

 王冠主義の基本は「形態」「表象」「象徴」の三次元構造である。1円玉の「形態」とは何か? それはひとつの金属片である。重さ1グラム、直径1センチのアルミニウムの円盤。表面に凹凸があり、側面がつるりとしている銀色の塊こそが、1円玉の形態だ。形態としての1円玉は、レジでの商品との交換には使えない。どうしても経済的価値を与えたいのなら、それをくず鉄商にでも持っていこう。目方1グラムのアルミニウムとして、買い取ってくれるかもしれない。あとは、せいぜい天秤の重りがわりに使うか、直径1センチの円を書くのに使うコンパスとしての価値はあるかもしれない。1円玉の「形態」が持ち得る価値は、素材としての経済的価値か、物品としての道具的価値くらいなのである、

 つづいて1円玉の「表象」に目を移そう。見ると、おもて面には木のモチーフと「日本国」「一円」の文字が彫ってある(時々誤解しているひとを見かけるが、こちらの面がオモテである)。裏返せば、大きく「1」という数字と、鋳造年が和暦で記してある。ここで、1円玉は新たな価値を獲得した。それは「美的価値」である。おもて面の若木の絵が良いだとか、うら面の数字のフォントが最高だとか、そういう評価を受ける可能性を手にしたわけである。もちろん、そのデザインが気に入ったので商品のパッケージに使わせてほしいと、お金を払う人が現れる可能性があるから、1円玉はその時点で製品としての経済的価値も持ちあわせていることになる。ただし、当然のことながらまだコンビニでの支払いに使うわけにはいかない。1円玉の「表象」は、いわば金属の塊に施された落書きにすぎないのである。

 さいごに1円玉の「象徴」を見よう。1円玉の象徴するもの、それは1円という純粋な価値の(日常における)最小単位である。1円玉は単なるアルミ片やデザイン以上の存在、つまり貨幣になり得るのは、1円玉の象徴の部分がそのような「認識的価値」を持つからである。要するに、われわれがわれわれの間で「これが1円である」と決めてそれを認識しさえすれば、木の棒でも石ころでもたばこの吸い殻でも、なんだって代用品になり得るのである。私たちがあれほどありがたがる1万円札だって、その形態は1枚の紙切れに過ぎないし、その表象はミクロレベルで凝ったイラストでしかない。本当に1万円の価値があるのは、それが象徴するものであり、つまるところ私たちの認識である。そのように考えると、現金でのやり取りを介さないいわゆるキャッシュレス決済は、硬貨や紙幣の「象徴」だけがやりとりされるという、ひじょうに興味深い例なのである。

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