Aの正体

 文字について考えよう。たとえばここに、Aという一文字がある。このAとは、いったい何者か? どのような価値を持っているのか? 王冠主義に基づく分析を通して、Aの正体を探ることを試みる。

 繰り返すようであるが、王冠主義の基本は「形態」「表象」「象徴」の三次元構造である。また、そのそれぞれについて「道具的な価値」「美的な価値」「認識的な価値」が対応することを確認した。ここでも、まずは対象の形態について考える。「A」が羊皮紙にインクで書かれているのならば、Aの形態は部分的にインクのしみ込んだ羊皮紙である。それが木材に彫刻されていたのだとしたら、Aの形態は木材である。それが人文字だったとするならば、Aの形態は人間の集合だ。Aという文字が記されている部分と、そうでない部分を物質的に、厳密に分けることはできないのである。文字が道具的価値を持っていたのは、おそらくそれが文字とよばれるようになる前、動物の数と同じ数の石を地面にならべたり、あるいは木などをひっかいて印をつけていた時代の話であろう(なお、実際にそのようなことがなされていたのかということについては、筆者は一切関知しない)。

 つづいてAの「表象」について見てみよう。このとき、Aははじめてその背景たる素材から独立した記号として認識される。Aは上を向いた二等辺三角形の等しい各辺の、それぞれが底辺と交わる側を延長したようなすがたをしている。Aの表象とは、つまりはその文字の外見である。これにより、Aは美的価値という新たな評価を獲得する。それが美しい字かへたな字なのか、ゴシック体のAなのか明朝体のAなのかという議論は、この段階にきてはじめて可能になる。ただし、だれもこの文字を「読む」ことはできない。いくらAという文字を凝視し、あるいはしらべたところで、エーという音韻を示す要素は何一つ見つからないからである。

 最後に、Aの「象徴」について考える。Aの象徴とは、エーという音である。私たちがAという文字を見てエーと「読んで」しまうのは、そこから「エー」という音が聞こえてくるからでも、そこに「エー」という音の発音のしかたが記されているからでもない。ひとえに、私たちが後天的な学習によって、Aという表象とエーという音韻とを結びつけているからである。象徴とは、このような特定の対象の表象と、べつの概念との恣意的な対応によって生まれるものなのだ。そして、そのような参照関係を指示するという性質こそが、象徴のもつ認識的価値なのである。

 ところで、Aという文字の象徴において結び付けられた「エー」という音韻、これは何であろうか? そのことについては、また別の機会に触れることにしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?