届かぬ星に手を伸ばす

 どうせ生きるなら美しく生きたい。自分自身やその行動の醜さを棚に上げて、そんなことをよく考えている。嫌いなものが完璧に排斥された環境や、必要最低限のものごとだけが時間的・空間的に整然と配置された生活、合理的で明晰な思考、世界に関する体系的で広範な理解、欲望の不在、そういった状態を私は美しいと思うし、あらゆるものをそういう状態に変化させることが私の主たるモチベーションになっているのは事実である。

 しかし、そんなものが理想に過ぎなくて、それが実現するよりも先に私の身体の方が寿命を迎えてしまうのだろうということを、私は同時に感じてもいる。幸せであるべき自分に水を差すように襲ってくる虚しさの正体は、きっとこの冷え切った確信なのだ。美的感覚に基づくものごとの選別が、やがては先鋭化してあらゆるものを傷つけ、最後には内部崩壊を起こす運命にあるということは、あらゆる歴史が証明しているし、私自身もそうあるべきだと思っている。また、私たちの認識そのものが流動的であることは、何十年も前から哲学者や科学者たちの間で議論されてきたことだ。それに、美に対する欲求が生きる原動力になっているのに、その最終目標がそのような欲望を捨てることであるというのは、明らかに矛盾している。論理の上では明らかに噛み合わないはずの歯車が、軋みながらも確かに私を突き動かしている。美とは、そういう類の化け物である。

 私たちが認識する物事の性質は三つの側面から考えることができて、しかもそれは物事のもつ能力に過ぎず、私たちは自分自身という例外を除いて、物事の存在を直接には感じられない。これもまた、私自身が考え、書いたことだ。それなのに、誰かに触れることでその存在を確かめようとする自分がいる。自分の長所や短所を並べて、自分のことを客観的に理解しているつもりになっている。そうでもしないとやっていけない、絶対的な孤独は忘れるしかないという心の叫びがある。そんなものは美しくないのに、その気持ちを捨てられないままで、また美しいものを探そうとする。私は星空を見上げるだけのちっぽけな存在である。そこに見えている光が何十万年も昔のものであると知りながらそれを欲しいと思い、それをつかむにはあまりにも短すぎる腕を伸ばす子供である。

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