近代日本舞踊史 Ⅵ 関東大震災から戦前まで

 三、林きむ子の「銀閃会」


これまで触れたように、大正に入って舞踊は様々な試みがなされる。その中でも独特な運動を展開した人物がいた。「銀閃会」の主催者であり、きむ子系林流の創始者、林きむ子である。


きむ子は明治十七年(一八八四)東京柳橋に生まれた。父は浄瑠璃家の豊竹和國太夫、母は娘義太夫のスター竹本素行。その後フランス料理店「浜の家」を営む眞嶋家へ養女に出された。養父母はきむ子に様々な芸事を習わせ、特に踊りについては西川流を学び「西川喜舞」ついで「西川扇紫」の名取を許された。また、大変な読書家でもあったという。

十六歳で青年実業家の日向輝武と結婚し、子供を六人もうけるも輝武は大浦事件に連座し逮捕され、獄中で発狂しそのまま没する。それから一年もたたないうちに薬剤師の林照寿(後の童謡作詞者、詩人の林柳波)と再婚。このことは古い貞操観念が支配的だった当時においては信じがたい行為で、大バッシングを受けた。共に芸術家肌だった夫婦はお互いに刺激し合える良好な関係にあったようだったが、のちに照寿の不倫が発覚し別居。離婚こそしなかったが、そのまま関係が修復されることはなかった。


きむ子が林流を創流し「銀閃会」を設置したのは大正13年(1924)これには七代目坂東三津五郎が助力している。この銀閃会を拠点にきむ子は膨大な童謡舞踊を創作。これはきむ子自身が「踊りは日本女性の基本教養の一つだ」という信念を持っていたからで、稽古に来た少女たちのみならず家の女中たちにも布団の畳み方に至るまでの「美しい所作」を教えていたという。これは「舞踊を芸術に」という新舞踊運動の中にあってかなり異質であるように思われる。きむ子は舞踊を「見せる」ものとしてだけでなく「実践する」ものとしてとらえていたのだ。このことは宝塚少女歌劇にも通じるものがあるようで興味深い。

四、市川猿之助その後

「大正の革命児」こと市川猿之助は昭和に入ってからも舞踊活動を行っていた。昭和2年11月本郷座で「高野物狂」を上演。これは評判となり、以後もたびたび上演している。
その後も公演を行い、ついに昭和5年(1930)10月松竹に春秋座再建を申し入れるが聞き入れられず同志とともに松竹を脱退。翌年6月に第二次春秋座の旗揚げ公演を行う。第二回公演では「ウィリアム・テル」「悪太郎」を上演。関西にも巡業したが経営が立ち行かなくなり、猿之助は第二次春秋座の解散を決意。松竹に復帰した。
昭和13年(1938)5月に再び春秋座を復活させた猿之助は有楽座で旗揚げ公演を開催。舞踊劇「妖霊星」を上演した。題材は日本の太平記であったが、振り付けは全てバレエの動きを採用した野心作で、当然のように賛否両論を巻き起こした。第三次春秋座はこの公演だけで終焉を迎え、猿之助も歌舞伎へとその比重を移していった。

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