近代日本舞踊史 Ⅺ

第四節 女性舞踊家の目覚め

6、藤間春枝(のち、吾妻徳穂)と「春藤会」

藤間春枝・本名山田喜久栄は藤間政彌(女性)の次女として生まれる。姉の君子とは種違いで、母親のみという家庭だったが当時の花柳界では別に珍しいことではなかった。ちなみに父は十五代目市村羽佐衛門とされているが、奔放な男性関係を持っていた政彌のこともあり、本当の父親については諸説ある。母の政彌には大変可愛がられたが、踊りは厳しく稽古をつけられ、天性の素質もあってめきめきと腕を上げていった。

小学校を卒業後、ある公演で「三社祭」と「鏡獅子」を踊る。これはとても評判で、喜久栄は「天才少女」と大いにもてはやされた。このことがきっかけで新橋の料亭からも御座敷がかかり、そこらの芸者よりも売れっ子となる。14歳で名取を許され「藤間喜久栄」と名乗った。

その後、幼馴染だった筑波雪子が活動写真の女優となると聞いた喜久栄は、かねてから芝居に興味があったこともあり自分も女優になりたいと思うようになる。そこで父の羽佐衛門のもとへ相談に行くと娘の熱意を理解した父は、こう答えた。


「…女優なんてもんはなァ誘惑の多い世界だ。男の俺と違って、女は浮気をしたらそれで一生おしめえだ。おれと政彌の血が入っているお前だから、やるにきまっている。女優はだめだ!」


しかし、六代目尾上菊五郎の口利きもあり、渋々ながら羽佐衛門は結局承諾。知り合いの伝手で喜久栄を帝劇の七期生にねじ込んでやった。晴れて女優への第一歩を踏み出した喜久栄であったが、花柳界出身でべらんめえな喜久栄は周囲から浮いた存在だったという。しかし、大倉財閥の大倉喜八郎の娘・高島鶴子に気に入られ、彼女との交遊を通して行儀をたたきこまれ、洗練された所作を身に着けた。また、この頃に「藤間春枝」と改名しているが、その名付け親も大倉喜八郎であった。

大正末からの大不況によって帝劇の女優劇は解散に追い込まれ、松竹に移籍した春枝は「心座」の舞台に出演。また、六代目尾上菊五郎から厳しい踊りの稽古を受ける。今まで褒められてばかりで得意になっていた春枝にとって、これはいい薬であった。またこの頃、上方で活躍していた武原はんと出会い大きな刺激を受けている。
昭和2年1月、松竹の芝居に出ていた春枝はひょんなことから同じ出演者の坂東一鶴(後の四代目中村富十郎)と一夜を共にし、そのまま翌日の舞台をすっぽかすという事件を起こしてしまう。これには政彌と羽佐衛門も大激怒。二人はあえなく引き離された。しかし、こっそり抜け出した二人はそのまま駆け落ち。そして春枝は一鶴の子を身籠る。既成事実を作られては両親も黙認するほかなく、二人は夫婦となった。

子育てと家事に追われる一方、新舞踊運動の高まりに刺激を受けた春枝は昭和5年「春藤会」を立ち上げる。
第一回に向けて、春枝は当時真新しい洋楽に洋髪のままで踊るという意欲作「新曲藤娘」を企画するなど、意気揚々と準備を進めていた。また母の政彌も選りすぐりの門弟をこれにつけるなど、愛娘の門出に支援を惜しまなかった。こうして万全の状態で公演を迎えるかと思われたが、公演が間近に迫ったある日、春枝は強烈な腹痛に襲われる。病院で診察を受けると子宮外妊娠であった。結局、手術と入院のため第一回には出演できず、その穴は政彌が古典を踊って何とか埋めた。さらに「新曲藤娘」は二度と陽の目を見ることなく、お蔵入りとなってしまう。

同年9月27日、日比谷公会堂で第二回を開催。前回の汚名を挽回すべく春枝は獅子奮迅の活躍を見せる。中国娘の衣装で踊った「南京小唄」古典の「三つ面子守」を上演し、高い実力を見せつけた。第三回は同じ日比谷公会堂で開催。「乙女心」「清姫物狂ひ」の恋に燃える女性役は春枝にぴたりとはまり、大好評を博す。同年11月の第四回では吾妻流の代表作となる「菊」を発表。これは桜に象徴される「春」の娘道成寺に対抗しうる菊に象徴される「秋」の娘道成寺を狙った意欲作である。

昭和7年の第五回から昭和8年の第七回まで春藤会は確実に歩みを進めた。その間、並行して大阪、名古屋、千葉へ巡業も精力的にこなしている。また、レコードにも目を付け、昭和7年7月30日には日比谷公会堂で「小春藤会レコード試演会」を催した。

昭和8年、春枝は羽佐衛門の計らいで市村家に伝わる日本舞踊の流派・吾妻流を再興し、家元となる。一鶴との駆け落ちの一件で羽佐衛門は春枝を勘当扱いしていたが、この頃には怒りも収まり春枝の活躍を認めるようになっていたのだった。

同年10月29日の第八回は吾妻流として初の春藤会。キリシタン弾圧を題材とする「切支丹絵巻」を上演。また、この公演の最後を飾ったのは春枝の十八番の「京鹿子娘道成寺」であった。翌昭和9年5月27日から30日までの4日間、吾妻春枝家元披露の第九回が開催された。「花橘寿狂言」では女性の役を滅法得意とした春枝としては異色の男役に挑戦。「うたたね」「タランテラ」はモダンダンス的な作品だったという。このように第九回の演目からはもっと新しい舞踊を開拓しようとする春枝の意思がより一層顕著となってゆく。

春藤会は同年の第十回から、昭和13年(1938)の第十四回まで順調に会を重ねた。この間弟子も増え、昭和10年には満洲で公演し大成功を収める。さらに昭和11、13年には二度にわたって大阪で本格的な春藤会を開催した。

この頃の春枝を支えていたのは内弟子の佐藤光次郎(後の藤間万三哉)であった。彼は第八回で春枝が踊った「京鹿子娘道成寺」に感激し、そのまま弟子入りした人物である。光次郎は早くから頭角を現し、また、舞踊の台本を執筆するなど多彩な才能を持っていた。そして、いつしか春枝と光次郎は惹かれあうようになっていく。

昭和13年、春枝は坂東鶴之助(一鶴)と別れ光次郎と結婚することを決意。しかし、当然鶴之助がこれを許すわけもなく、追い詰められた春枝は光次郎を伴い鎌倉へ駆け落ちした。このスキャンダルによって吾妻流家元を返上せざるを得なくなり、せっかく増えた弟子もほとんどいなくなってしまった。舞踊活動ができなくなった春枝であったが、この期間にみっちりと自分の舞踊を振り返る。このことは次の公演において大いにその成果を現すことになる。

半年後、鶴之助の家族と何とか和解にこぎつけ、正式に光次郎と結婚。また、父から吾妻流の家元を再び与えられ、さらに今度は宗家も譲られた。(しかし、光次郎も浮気を繰り返し、春枝は出家を真剣に考えるほど悩むことになる)

復活の第十五回春藤会は昭和14年10月17日と18日の二日間。新橋演舞場にて。この回で起死回生となる傑作「西行時雨」を世に放つ。これは光次郎が鎌倉での駆け落ち中に考えに考え抜いて生まれた作品。「西行時雨」は従来の舞踊のような大がかりで派手な要素を排して、既成の古典曲に素踊りで新しく振り付けたことが評価された。また、春枝の気迫のこもった演技も観客に感銘を与えたという。

劇的な復活を遂げた春藤会だったが、時代の流れには逆らえなかった。既に国策にかなったものでなければ上演許可がおりない時代になっていたのだ。第十六回と十七回はどちらも国威高揚のための舞踊会となった。十八回は資料が散逸してしまい、詳しいことはわかっていない。

事実上最後の春藤会となったのは昭和18年11月19日の第二十回である。この回もまた戦時色の強い回であったが「鶴群」ではタイツのバレリーナと日本舞踊のコラボレーションを試み、打楽器だけの場面を設けるなど様々な工夫がなされ、春枝の前衛性がまだまだ健在であったことを偲ばせる。

なお、これより以前の昭和17年8月に姓名判断によって春枝は名を改め、新たに徳穂と名乗っている。

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