近代日本舞踊史 Ⅴ

三、花柳流の動向


花柳流は「田町の雷師匠」こと初代花柳寿輔に率いられ隆盛を極めていたが、その晩年あたりから台頭著しい藤間勘右衛門の藤間流の後塵を拝するようになっており、さらに花柳流から分れた若柳流も急速に勢力を拡大させるなど、苦境に立たされていた。

この状況下で奮戦していたのが初代寿輔亡き後、家元を預かっていた花柳徳太郎である。徳太郎は藤間流の「東会」に対抗するため、そして新人を育成し花柳流の再興につなげるため大正2年(1913)「柳桜会」を発足させた。


さて、この柳桜会が舞踊史に大きな足跡を残すことになる。それは大正8年(1919)年の第二回柳桜会で上演された「惜しむ春」によってである。今日では新古典と呼ばれ、その際立っ誌的情感から舞踊詩ともいわれるこの作品は現代でも大きな人気がある。また特筆するべきはこの作品が新しい舞踊として作られたことだ。当時は新作舞踊を「新曲」と呼んでいたが、この「惜しむ春」は、はっきりと「新舞踊」と銘打たれていた。これは藤蔭会の「浅茅ヶ宿」よりも早く、舞踊において初のことである。

画期的なのはこの振り付けをしたのが20歳の女性であったということだろう。初めは徳太郎が振り付けを考えていたが、なかなか思うようにいかなかった。そこで、実際に舞台で踊る彼女に思い切って振り付けをまかせたのである。家元以外のものが―ましてやこんな若い女性が―振り付けを施すなどと考えられなかった当時、これは異例中の異例のことであった(さすがに名義は徳太郎のものであったが)。だが徳太郎は「ひとつ思い通りにやってごらん」と優しく言っただけだったという。

そして、この女弟子は悪戦苦闘しながらも見事にその期待にこたえて見せたのだった。このエピソードは徳太郎の人柄を表しているとともに、当時の花柳流の奔放な雰囲気をよく物語っているといえよう。この柳桜会からは件の女弟子をはじめ日本舞踊を支えてゆく人材が多く生まれていく。また、花柳流も新たに生まれる家元のもと、新舞踊の一大拠点となるのである。

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