近代日本舞踊史 Ⅳ

第二節 「新舞踊」の開拓―関東大震災まで

二、歌舞伎俳優たちの新舞踊

第一次世界大戦後、多くの日本人がヨーロッパ・アメリカにわたり見聞を広めた。また、舞踊界にとって大正11年(1922)のアンナ・パブロワの来日はまさに黒船来航のような衝撃であった。彼女が演じた「瀕死の白鳥」は日本の新舞踊における一つの道標となり、それを観て、いてもたってもいられなくなった若い歌舞伎俳優たちが続々と立ち上がってゆく。五代目中村福助、七代目尾上栄三郎、そして、二代目市川猿之助(後の猿翁)がその代表格であった。

「羽衣会」

中村福助は梨園の重鎮・五代目中村歌右衛門の長男。「慶ちゃん」の愛称で親しまれ、持ち前の美貌と優雅な芸風で次代を担う女形の逸材と目されていた。彼は大正11年に「羽衣会」を発足させる。第1回公演では、坪内逍遥の「鉢かつぎ姫」、古典の「鬼次拍子舞」、新しいものとして本居長世のオペラ「夢」、新旧の中間的な「潯陽江」また、流行していた童謡舞踊として「移りゆく時代」を上演。このときの羽衣会の引き出しの多様さは缶工場になぞらえられたほどだ。

驚くべきはその席の値段である。特等席は10円、一番安い席でも1円という高値であった。(当時の大卒初任給が約50円)そんな高価な席だったがあっという間に売り切れてしまった。なのに、1万円もの赤字が出たというのだから開いた口がふさがらない。(当時の国会議員の年収が約3,000円)こんな滅茶苦茶が許されるほど当時の中村一門の力が強大だったのだろう。

「踏影会」

尾上栄三郎は福助と同年。福助の父歌右衛門は歌舞伎座の座頭であり、栄三郎の父梅幸は帝国劇場の座頭。さらに栄三郎も若き女形として将来を嘱望されていた。このことからわかるように、福助と栄三郎は宿命のライバルであった。

羽衣会に遅れること約半年。栄三郎は「踏影会」を立ち上げる。第1回公演は大正11年(1922)11月26日~28日の3日間、市村座にて開催された。二部制で上演され、一部では「五変化」、「犬神」という古典。二部では新作「生贄」、「陽炎」が上演された。この一部で古典、二部で新作をやるというのが踏影会の上演形式となる。この中では「生贄」が反響を呼んだ。

尾上といえば尾上菊五郎である。彼は踏影会の発足にあたって「若い者は若い者の考へた通りなことをやらなくちゃ駄目です。なまじっかな人の言ふ事を聞ひてやるよりも、当人達が本当に頭から絞り出してやることが一番好い。勿論私は何も言ひません。振付にもその他のことにも。然し見てはやります。稽古も見てはやります。」と激励の言葉を贈っている。だが、やはり菊五郎の影響力は大きく、肝心の若い者たちは次第に菊五郎の操り人形になってしまったという。

羽衣会と踏影会の対決

第2回羽衣会は大正11年の10月に行う予定であったが、諸事情により帝国劇場を確保できず、翌年3月26日に延期となる。なんとこの日は第二回踏影会の翌日であった。こうして図らずも福助と栄三郎という二人の花形の対決が実現する。

まずは踏影会。第一部の古典では「室町殿栄華舞台」の一部「参候連理橘」を改題した「虫売」、琴曲「殺生石」と長唄「時致」。「殺生石」は古曲に新しく振付を施し、実質的には新曲である。第二部では「黄昏賦」、そして小品四種というラインナップであった。

さてその評価であるが、「殺生石」はいたずらに長いだけと不評。「黄昏賦」では新しい試みとしてカラーチェンジによる背景転換法を行ったが、東洋風バレエを目指した群舞の趣旨は理解されなかった。

羽衣会は「水と鳥」、「独楽売」、「女と影」、「マグダラのマリア」、「色の手綱恋の関札」を上演した。このうち最も反響を呼んだのは「女の影」である。これはフランスの作家で当時、駐日大使であったポール・クローデールが羽衣会のために書き下ろしたもの。一部では大絶賛を受けるが、もう一方ではこっぴどく批判されるという文字通り賛否両論であった。絶賛した側はその西洋的な雰囲気を認めたが、批判した側はクローデルの日本に対する短絡的なイメージで描かれたことに憤ったのである。

もう一つ話題になったのは「マグダラのマリア」。これはメーテルリンクの原作に山田耕作が作曲したもの。舞台美術の配色の妙、効果的な照明、音楽、そしてパントマイムを振付に取り入れ、観るものに感動を与えたという。

このように手厳しい評が多く寄せられたそれぞれの第二回公演だが、やはりこの二人の対決ということで大きな話題を呼び、帝国劇場は大盛況となった。

羽衣会と踏影会のその後

第二節では関東大震災以前の舞踊の動向を扱うが、羽衣会と踏影会、そして後述の春秋座については一気に関東大震災後まで述べる。羽衣会と踏影会は関東大震災前後のわずか一回の公演で終わってしまい、春秋座も一旦その活動が途切れるからである。

羽衣会は関東大震災の2年後の大正14年(1925)歌舞伎座で第3回公演を行う。この時何か新しいことがされたという記述はなかった。これが羽衣会の最後である。中村福助は昭和8年(1933)34歳という若さで没した。

踏影会は第二回公演の一ヶ月後大阪で公演し第4回のために琵琶湖伝説から題材をとった「水影草」を準備していたが、関東大震災のため中止。その後踏影会が公演を行うことは二度となかった。尾上栄三郎も大正15年(1926)年27歳で他界した。

「春秋座」

二代目市川猿之助は京華中学に学び、坪内逍遥の伝手で早稲田大学、小山内薫の伝手で慶応義塾大学の聴講生となり教養を磨いたという異例の経歴の持ち主である。そして田中良と共にヨーロッパへ遊学した彼は、ロシアンバレエにすっかり魅せられてしまった。

帰国後「春秋座」を立ち上げた猿之助は大正10年(1920)11月に新舞踊「虫」を発表。これは歌詞のない邦楽オーケストラにあわせて群舞し、季節の移り変わりによってはかなく死んでゆく虫の姿を表現するというロシアンバレエの影響が色濃い作品であった。猿之助はこの作品のために虫屋の虫を買い占め、その触覚の動きから足の運びまでをつぶさに観察するところから始めたという。

「虫」は賛否両論であった。音楽についてはそのあまりの不統一さ、抑揚のなさから「百姓一揆」とまでこきおろされた。とはいえ、初の日本風バレエの創造を目指したこの作品は新舞踊における重要作の一つとなった。

その後、第2回公演では女性だけが出演する「通ひ小町」を上演。こちらは不評であった。第3回はディアギレフの「不思議な函」を翻案した童謡舞踊「おもちゃ店」をやったが「西洋の焼き直しで独創性に欠ける」と、こちらも不評であった。そして大正11年の第4回では新舞踊「焼津日本武尊」を上演する。これは好評だった。翌大正12年3月、同題の能をモチーフにした「鷺」を発表。これは帝劇の女優も参加し、振り付けは二代目花柳寿輔が担当した。

「歌舞伎俳優たちの新舞踊の意義」について

春秋座もこの公演をもって一旦活動の記録は途切れ、あれほど盛行した歌舞伎俳優たちの新舞踊はあっさりと終わりを迎えた。この運動は新舞踊の認知度を上げることに対してだけはその意義が認められているものの、その内容、演出等は全く評価されず手厳しい評が目立つ。

これは考えてみれば当然のことだ。新舞踊の目的の一つに「歌舞伎舞踊からの脱却」がある以上、歌舞伎俳優の舞踊を称賛するわけにはいかない。それば「舞踊は歌舞伎の片手間でもできる」と認めてしまうようなもので、舞踊を貶めることになってしまう。また、人脈、金銭的に恵まれすぎていた彼らが舞踊で成功しても、全く面白くない。藤蔭静枝のようなドラマチックなサクセスストーリーの方が印象に残るのだ。

こうしたことが歌舞伎俳優たちの新舞踊を不当に評価させる原因であるように感じる。もっと公平な目で再評価されるべきであると思うのだが、もう私たちは「虫」も「生贄」も「女の影」も観ることはできないので、それも難しいだろう。残念なことである。

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