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火葬場の朝

死、というものがわからない。

私にとって死とは、
確かに向き合わなければならない事実であるはずなのに、どこか他人事のような、中身がよく分からないから一旦隅に置いておく荷物のような、そんなものだ。

かの有名人が時代を震撼させている伝染病で亡くなったと聞いても、あるいは誰かが自ら命を絶ってしまったと聞いても、やはり骨身に沁みる実感というものがなくて、ぼんやりとした淡い哀しみに包まれただけだった。


木曜の昼、突然、祖父が亡くなった。

その事実を聞いた時も、
棺に手向ける花束を抱えバスに乗っている今も、
他人の顔で揺られているだけだった。

窓から太陽の光が強く差し込み、思わず空を見上げた。
空には刷毛で丁寧に描いたような、長く真っ直ぐと伸びる雲が奥に、どっしりと岩のような雲が手前に横たわり、二つは別方向に進んでいく。

突然、私と祖父を繋ぐ平凡な日常が、
まるで走馬灯のように駆け抜けていった。

もう二度と、祖父は、私を笑顔で出迎えてはくれない。
もう二度と、祖父は、私と言葉を交わすことはない。
もう二度と、祖母の、手作りの料理を三人で囲むことはない。

思い出がつまったあの家は、
取り壊しが決まったという。

思わず涙が溢れそうになって、誤魔化すように前に向き直った。
バスの前方には祖母が丸くなって座っている。

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祖母は、
これからどう生きていくのだろう。

ふと、そんな言葉が頭をよぎった。

最愛の夫を亡くした祖母は、自分の人生を減りゆく砂時計を眺めるかのように過ごしていくのだろうか。

例えば、今はこうして哀しみを分かち合うことが出来ても、
ひとり取り残された部屋で、どこにも気持ちの置くことのできない夜を過ごすんじゃないか。

祖母の声なき声が聞こえたようで、私はうずくまってしまった。

何か、何か少しでも
気休めでも良いから、
祖母にとっての明日が、終わりを望むものでないように。
ほんの少し彩りを添えられる、何か。

手紙を書こう。

それは、ひとり温泉旅行していたときに思いついて一旦寝かせていた案だった。

イメージは、気軽なメルマガのようなもの。
他愛ない下らない内容や、ちょっとしたお役立ち情報が毎月届くような。

インターネットについていけず、社会から隔離されている祖母にそんな手紙が届いたら。
ただの自己満足にすぎないだろう。
工夫を凝らして仕上げても、何も伝えきれず徒労に終わるかもしれない。
何より迷惑かも。

一度は頓挫した計画だった。
それをやってみようか。

もう一度、祖母を見つめる。

私たちは悠久の時の流れのなかで、一度しか出会うことが出来ない。
いつか、は必ず来る。
必ず、埃の被った荷物の中身を、その目で確かめねばならない時がくるのだ。

死、というものがわからない。

でも、わからない、がわかるその前に、
生きている者の永遠の命題の答え合わせをするその前に、
私たちにできることは、まだたくさんあるはずなのだ。

どうか、大切なあの人に遺せるものがありますように。
願わくば、今は空の上にいるあの人も、面白おかしく見ていてくれますように。

どうか。

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