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哲学対話とわたし

わたしは、哲学対話がこわい。

今週、沖縄で3日間、哲学対話をした。
夏休みになってからは一人でもくもくと勉強・作業することが多かったから、とても久しぶりの哲学対話だった。

いつも哲学対話について書くと、いろんな人から「哲学対話をやってほしい」とか「このイベントに来てほしい」という言葉をもらう。でもその度にわたしは、哲学対話に完全にはハッピーになれない自分にもやもやを感じたり、対話後のネガティブな気持ちに気づいてどうして自分はこうなんだろうと落ち込んだりしてしまう。

この3日間を通して改めて、わたしは本当に哲学対話が苦手だし、怖いし、しんどいんだな、ということに気づいた。
だから今日は、わたしのそういうちょっとマイナスな気持ち、わたしの哲学対話とうまく関われない部分について書いてみたいと思う。これは、わたしのそういう状態を誰かに伝えたいという気持ちであり、また、過剰な期待や理想を押し付けない・抱かせないことで、わたしが哲学対話をありのままにできるだけ大切にするための試みでもある。

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哲学対話ってなに?という人はまずこちらから。

わたしは、哲学対話がこわい。
以前に、この記事の中でこんなことを書いた。

最初に、「ときどき、哲学対話というものをやっている」と書いた。

わたしは自分の考えていることを誰かに話すのはあまり好きじゃないし、対話は自分のやわらかい部分に誰かが踏み込んでくるような気がしていつも怖い。誰かの発言が自分をひどく打ちのめすこともあるし、自分の考えがひっくり返って跡形もなくなってしまうこともある。自分が傷つくこともあるし、誰かを傷つけてしまうこともある。
でも、対話中の誰かの何気ない言葉に救われたり、一人ではたどり着けなかったところに誰かが連れていってくれたりもする。少しずつ言葉にしていくなかで新しい自分を見つけたり、世界の美しさや豊さにふと出会ったりすることもある。

だから、なぜ哲学対話をやっているのかは自分にもまだよくわからないのだけど、ただ自分の探しているなにかがそこにありそうな気がして、そんな瞬間を掴みたくて、いまもやめられないでいる。おそらく、これからも。

ちゃんす「2023年の哲学対話の記録」より

これをもう少し具体的に説明しようとしたこともある。
わたしのちょっぴり臆病な気持ちや心の奥底の弱い部分が、わたしの哲学を支えているということを誰かにわかってもらえたらいいな、という気持ちで書いたものです。

わたしは、哲学対話がたのしくて参加しているというよりかは、対話のしんどさや苦しさを感じつつも、これになんとなく意味がある気がする、と思ってしまって辞められずに続けている、という人間です。

わたしは考えるのが好きだけど、好きだからこそ、それを誰かと共有することにすごく抵抗があって、自分がずっと時間をかけて大切に考えてきたことを、対話の一瞬で誰かに破壊されてしまったらどうしよう、と思っていつも怯えています。だから哲学対話に参加するときはいつもとてもこわいし、対話のなかでひどく傷つけられたと感じたり誰かを傷つけてしまいそうでなにも言えなくなったりしてしまう。
わたしにとって哲学対話は、わたしの心のいちばんやわらかい部分を相手の目の前に無防備にさらけ出さねばならない場であり、同時に誰かの心のやわらかい部分を自分の手のひらにどんと置かれてしまう場でもある、そう思っています。

それでも哲学対話にずるずると関わっているのは、自分1人では見つけられないなにかがみんなでなら見つけられるかもしれない、という哲学対話のスタンスがとても好きだし、そうであってほしいとわたしが願っているからです。
この世の中は正しくないこととか美しくないことで溢れていて、わたしはそのどうしようもなさに打ちのめされたりおろおろしたりする日々を送っているけれど、本当にどうしようもないのだと諦めてしまいたくはなくて、自分には見つけられない答えや道を誰かが知っているかもしれないというその希望を信じていたい。逆に、わたしが世界を救う一手を、わたしのこのどこかにもっているかもしれないという希望も同時に信じていたい。

哲学対話をする度に、その希望の光を見たような気がして、だからわたしは辛くても苦しくても、哲学対話をやめられずにいるのだと思っています。

ちゃんす「なぜ哲学を学んでいるのか」

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例えば、わたしは大人との対話がこわい。

自分より年上の人から「ありがたいお話」をいただくとき、みんなが対等で・セーフティーで・探求の共同体の一員であるという場が壊されている、と感じる。
「子どもを産んだらわかるよ」とか「大人になったらわかるよ」とか言われてしまったとき、この人はわたしの意見を聞く気がないんだと思わされて悲しいし、ほんとうのことを一生懸命に探しているわたしが踏みにじられているように感じて苦しい。

大人と対話しているとき、わたしはとても広くて暗いところにポーンと放り出されてしまい、ひとりぼっちで寂しくて心細くてたまらない感覚になることがある。
対話の道中でよく、過去の経験や今まで信じてきたこと、当たり前だと思っていたことがガラガラと崩れ去る瞬間があって、それがみんなとはぐれてしまう感覚にすごくよく似ている。
わたしは、大人より子どもたちの対話の方が好きで、それは彼らがいつもわたしと「一緒に迷子になってくれる」感覚があるからだと思う。不安や孤独を感じるとき、ふと、右腕にくっついているあったかい体温や、身を乗り出して膝に乗り上げてくる小さな手に気づいて、わたしはひとりぼっちじゃないんだな、と思える。

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例えば、わたしはだれかに自分の「ほんとう」を話すのがこわい。

わたしにとって、ほんとうのこと、つまり自分のほんとうに感じていることや考えてきたことを話すのは、自分のやわらかい部分を無防備に差し出している感覚であり、だれかの評価の前に丸裸になる感覚である。
ナウシカが王蟲の群れを前にたった一人で両手を広げて立つシーン、これからくるものに必ず傷つけられるとわかっていてもなお自分を示すこと、そこで傷つけないことはほんとうに奇跡のような確率でしかない、という感じで。

生まれてから今まで、わたしが経験したこと・感じたこと・学んだこと・考えたことを材料にして、長い時間をかけて消化してきたことが、わたしの「ほんとう」を作り上げていて、だからこそそれを誰かに完璧に受け取ってもらえる・わかってもらえることなんてあり得ないとわかっているのだけど、
それでもなお受け取ってほしい・わかってほしいと思ってしまうし、反対に、簡単には受け取らないでほしい・わかられてたまるかとも思ってしまう。

話してわかってもらえないことも怖いし、わかられてしまうことも怖い。
わたしの臆病で、いちばん弱い部分であり、それを乗り越えるためにエネルギーをひどく消耗する部分でもあります。いつも、話そうとするたびに息が詰まってしまって、対話が終わったときには抜け殻のようになってしまう。

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例えば、わたしは哲学対話の「まとめ」がこわい。

たまに、哲学対話の終わりに結論を出そうとする人や、感想と称してみんなの対話をまとめてしまう人がいる。「このグループではこういう話をして、こういうふうに話が進みました」と言われたとき、対話の中でわたしの言えなかった言葉や、わたしが大切だと感じた話が取りこぼされ、無かったことにされてしまったような気がして、それが大嫌い。わたしだけじゃなく、それぞれの感じていたものがどんどん削られて、どこかへいってしまうのがとても悲しい。

その人が感じた・考えたことと、その場で存在していたもの・生まれていたことはぴったりと重なっているわけではなくて、それをわたしが痛いほどに知っているからこそ、自分やみんながまとめられていく瞬間がほんとうに苦しい。
誰かがどれだけ一生懸命に掬い取ろうとしてもそこから飛び出していく部分があるということ、それが深くて広いということなんじゃないのかなあと思っています。そういう対話の豊さとか深さとかを、無理だとわかっていてもどうにかそのままで留めておきたい、といつも願ってしまう。

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哲学対話がつくろうとしている場、安全で、みんなの意見に価値があって、よく聞いて考える場。

わたしは臆病で、弱くて、そういう場があることを簡単には信じられない。
でも、だからこそ、そういう場がほんとうにあるんだろうか、わたしにそれが作れるだろうか、と祈るような気持ちでずっと哲学対話に関わっています。
こわいからこそ、こわい人のためにわたしが何ができるだろうか、そういう人が生きていくにはどうしたらいいだろうか、哲学対話に希望はあるだろうかと、わたしが考えることに意味があるのだと信じています。

こわさ、しんどさ、苦しさに気づくと同時に、まだまだ諦めたくないと思わされる沖縄での3日間でした。そういう全部を抱きしめて哲学対話と向き合っていきたいし、そういう部分をなかったことにしないための今日のnoteです。

沖縄の思い出

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読書案内

過去に哲学対話について書いたnoteがいくつかあるので貼っておきます。


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