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政治とか選挙とか

7月に都知事選があった。
それ以来、政治とは何について考えることなのか、選挙権があるとはどういうことなのかについて、ずっと考えている。

今回は、政治や選挙に対する社会の風潮や、大人・まわりの人たちの意見に対して、わたしはそれはちがうんじゃないかと思うことをいくつか書いてみたい。
特定の思想や政策についての意見ではなく、「政治そのもの」「選挙そのもの」について書くつもりなので、身構えずに読んでもらえるとうれしいです。

なにより、一人ぼっちで社会や世界について考えるのは孤独でさみしい。一人でははむずかしいから、誰かがいつかわたしの仲間になってくれたらと祈るような気持ちで、今日もこのnoteを書いています。



はじめに:政治はこわくない

まず前提として、わたしは決して政治に明るくはないことを断っておきたい。
こんなnoteを書いているけれど、わたしも大学生になって哲学をはじめるまでは「政治」というものに対してなんとなく抵抗感があったし、自信がなくて誰かと話すことも出来なかった。社会システムや政党について学校で習っても、いつまでも覚えられない。わからないということすら恥ずかしくて、とにかくその場をやり過ごしたい。そんな気持ちだった。

でも哲学に出会ってから、わたしは自分という個人が社会と繋がっていることを知ったし、社会や政治について考えることは小難しいことだけじゃないことに気づいた。「個人的なことは政治的なこと」という言葉がとてもしっくりきたのを覚えているし、いまもそれを信じている。
さらに哲学対話に出会ってからは、だれの意見にも価値があるし、みんなが探究の共同体である、と考える視点を持つようになった。

自分のなかでこういう考え方を手に入れたことによって、少しずつ政治や社会について考えることができるようになってきたし、大学でも政治や社会について学んでみたいと思えるようになった。
もちろん、まだまだ知らないことも多いし、わかっていないことも多いし、政治のはなしを堂々とできる自信もない。そんなへなちょこでも、へなちょこだからこそ、みんなと一緒に社会や政治について考えてみることからはじめることができるんじゃないか、と思って、勇気をだしてこれを書いています。



1. 自分で「政治に興味ない」っていえる?

まず一つ目に、「もっと若者に興味の持てる政治にしてほしい!」という主張に感じるもやもやについて考えてみたい。

今回の都知事選に際して、若者の意見やインタビューを取り上げたさまざまなニュースを目にした。
そのなかに、「自分は政治に興味がない」とか「若者の興味をひくような政治じゃないのが悪い」という主張が結構あって、それにすごくもやもやというか、なんかへんじゃない?と思ったので、ここでそれについて考えてみたいと思う。

なにか「興味を持てない」ということ自体は仕方ないのかもしれない。かくいうわたしも、スポーツ観戦にほぼ興味がないので、無理やり興味を持つ(持たせる)ってむずかしいよなとは思う。

でも、その社会に生きてるのに、自分の日々の生活がかかっているのに、「興味を持てない/興味がない」ってどういうことなんだろう。
おれサッカーのコーチ誰でもいい、みたいなことなのに。練習中ずっと寝てて全然何も教えてくれないコーチでも、お金を払って習いたいと思うのかな。
でもそれって、無農薬野菜を食べてる人が、農薬について喋ってくるみたいなことなのかな。添加物が身体に悪いと言われても、なんとなくスルーできちゃう、みたいな?

政治がわたしたちの生きる世界・社会を作っていると考えれば、わたしは基本的にみんな政治に無関心ではいられないと思うんだけど、
それでもやっぱり「興味を持てない/興味がない」って言えてしまうのは、その人がマジョリティに属していて、どんな社会でも自分が疎外されないと無意識に信じているからなんじゃないかな、と思う。
でもそれってずるいよね。無関心でいられることそのものが特権で、「自分は政治に興味がない」って言うことはその特権を振り翳すことなのに。

もちろん、選挙に行っている側の主張として、あるいは投票率を上げるという文脈における現状分析として、「最近の若者は政治に興味がないからどうしよう」っていうのはわかる。興味を持ってもらうためにどうしたらいいか考えて、工夫することも必要だと思う。
でもやっぱり、自分で「わたし政治に興味ないんだよね」「そっちが変わってよ」っていっちゃうのはもやもやするし、おかしいんじゃないかなあ。


2. 選挙活動って誰かの悪口を言うこと?

二つ目に、選挙活動の様子を見ていて、誰かの悪口を言うことが選挙活動なんだろうか、と思ってしまったわたしの気持ちを書いてみる。

政治って、選挙活動って、誰かの悪口を言ったり相手を貶したりすることだったっけ。

例えば、候補者のネット討論会で、「あなたのこれは間違っている」とか「この政策は全く意味がない」とか、そういう形でばかり、自分の正当さや優秀さを示そうとする人がいる。もちろん、意見が対立している人たちが互いに主張し合うのはわかるし、必要なことだと思う。

でも本来政治って、相手を攻撃したり批判したりすることによってではなく、みんなで一緒により良い社会の制度とか政策とかそういうものを考えていくことによって、為されるものなんじゃないのかな。どういうふうに意見が違うのかとか、どうしてお互いがそれを大切にしているのかとか、そういうことを建設的に議論する場はどこへ行ってしまったんだろう。

例えば、SNSで特定の候補者を擁護するために、ほかの人を貶したり人格を否定したりする人たちがいる。特にわたしがもやもやするのは、一見ただの応援にみえるような形で、本人ですらネガティブな発信をしている自覚がなさそうなとき。

誰かを蹴落とすことが政治の本質なのではなく、ほんとうは、いい社会になるなら誰が政治を行うかなんてどうでもいいはずなのに。あの人が好きとか嫌いとかじゃなくて、もっと真剣に、社会がどうあるべきかとか、そのために私たちがどうするべきかとか、そういうことを考えることはできないのかな。

死んだらみんな「あの人はいい人だったのにね」っていう。それなのに、生きてる間はその人を叩いてばかりでうんざりする。ネットいじめとなんにも変わらない。
政治や選挙はそういうものではないはずなのに。そうであってほしいのに。


3. 小池さんの政権を変えたいなら、蓮舫さんに投票するしかない?

三つ目に、ネットでちらほら見かけた「小池政権を変えたいなら蓮舫さんに投票するしかない」っていう考えについて、なんかへんじゃない?って思うわたしの気持ちを書いてみる。

政策内容とか、候補者のプロフィールとか、そういうものを全部無視して、小池政権に対抗できる可能性があるのは蓮舫さんだけだから、小池さんがいやなら蓮舫さんに投票するしかない、という主張。

選挙って、投票したい人に投票するものじゃないのかな。
小池さん以外の人を支持していて、それが蓮舫さんでもなくて、そういう人が自分の信じる人に投票することは、間違った行為なのだろうか。

確かに、名前のあまり知られていない政党所属の候補者や、若手の候補者は、小池政権に対抗できるほどの勢力にはまだなっていないかもしれない。
それでも、だからといって蓮舫さんに投票してしまえば、わたしが信じる候補者はまったく得票できなくて、その候補者の主張が耳を傾ける価値の少ないものだとみなされてしまうかもしれない(数が少ない・声の小さい意見が、聞く価値のないものだとする考え方自体がそもそも間違っているかもしれないとは思うけれど)。

自分の信じる人に投票することが、悪に加担してるみたいな言い方をされるのは、なんだかかなしい。

あと、はじめてこの主張を目にしたとき、そもそもその主張結構あやしくない?という気持ちもあった。
対抗勢力はほんとうに蓮舫さんだけなのかな。それって蓮舫さんの支持者の主観的観測なんじゃないか。そういう疑い。

実際に、蓋を開けてみれば2番目に得票数が多かったのは石丸さんだったし、名前の知られていない新しい人たちにもそれなりに票が入っていたわけで、小池さんか蓮舫さんか、という二項対立は、メディアやSNSで煽られていただけだったような気もする。

だからわたしは、やっぱり自分の気持ちも信じたらいいんじゃないかなって思ったし、投票したい人に投票したいしそれが許される社会であってほしいし、得票率を見て都民の民意を汲んでほしいし、そういう政治であってほしい。
そして、政治にへなちょこでも、そういういろんな人の意見を「ほんとうかなあ」と考えてみることはできるし、社会について考えてみることもきっとできると思う。


4. 石丸さんに投票する人は馬鹿、という主張

最後に、これもネットでちらほらと見かけた「石丸さんに投票する人は馬鹿」みたいな、特定の候補者に投票した人への悪口について、わたしの思うところを記しておきたい。

*ちなみに、ネットで特に石丸さん支持者に対してこのようなコメントを見かけたので名前を出しているだけで、石丸さん自体についてここでどうこう言うつもりはありません。

わたしは、選挙はその人が選んだなら、誰に投票したっていいと思っている。
それが、政治や社会についてよく知っている人やわかっている人から見ると「馬鹿みたい」な選択だったとしても、勇気を振りしぼって投票した人や一生懸命考えて選んだ人を、悪く言ったり攻撃したりするのは間違っていると思う。

ちっぽけな勇気をへし折る言葉。

わたしたちは完璧じゃないし、政治や社会について専門家じゃない人たちの集まりで、それでも選挙にいこう、わからないなりに政治に参加しようって思った、そういう人たちを叩くのってまちがってるんじゃないの。なにさまなの、って思ってしまう。

でも一方で、たしかに、みんながずっとへなちょこなままで、政治や社会に無知なままでいたら、社会は微妙になってしまうのかもしれない。私たちは、「わからないなりに」という言葉で逃げてばかりいてはいけないのかもしれない。
そんなことも考える。

でもやっぱり、そうだとしても、「馬鹿だ」とか「頭がおかしい」とか、そういう声かけで誰かをポジティブに変えることはできないと思うから、政治や政府と、へなちょこで政治に不慣れな人たちをつなぐ方向にエネルギーを使ってくれたらいいのにな、とは思う。

そして、もちろん、そういう人たちばかりを責めるのではなくて、わたしたちがもっと、少しずつでも、政治や社会について学んでいくことが大切だし、考えていくことが必要なんだと思う。



おわりに:やっぱりみんなで考えたい

へなちょこなわたしたちは、政治について考える過程で強そうな人に傷つけられたり、脅かされてしまったりすることがあるかもしれない。
でも、へなちょこなわたしたちも社会の一部だし、政治の一部だし、へなちょこだからこそわかることとか言えることとか感じることがあるはずだから、めげずに、やっぱりみんなで考えていきたいと思う。

哲学をはじめるときみたいに、政治についても、今ここにいる「わたし」からきっとはじめられると、わたしは思っています。

ポッドキャストでも政治の話をしたので、よければ聴いてね。ちなみに恋人のたけしも、政治についてはへなちょこですので、お手柔らかにお願いします。

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