石岡先生

高校一年生のとき、担任は数学の先生だった。
非常に変な先生だった。誰に対してもいつももったりとした敬語で喋る、小さな目に眼鏡をかけたおじさん先生。一年生が終わる3学期の終業式に、久しぶりに来た不登校の子を廊下の壁に押し付けて怒鳴っていたから、良い先生ではないんだと思う。しかし私は、その先生に救われた。

その頃人間的な生活すらままならなかった私は、毎日遅刻をしていた。午後に登校することも珍しくなかったし、学校に着いてすぐ、体育祭を終えたクラスメイトが教室に戻ってきたことがある。あの時はよく泣かなかったな、と今でも思う。適当に手伝うしかなかった文化祭も、2日開催することを知らなくて1日しか顔を出せなかった。私はそれでも、欠席だけはするもんかと決めて学校に通っていた。

2学期の半ばだったと思う。廊下で先生にこう言われた。
「留年か、転校か選んでください」
私の成績は地を這うようなものだった。3桁を超えて表示できなくなった遅刻回数は「**」と印刷されていた。進級がしたかった。先生は「学年末テストで全教科80点以上取ったら進級できますよ」と言った。

今思えばあれは先生の冗談だったと思う。なんせその時の私の数学の点数は4点だ。サインコサインの呪いに負けて、テスト中に泣いた私に、先生はきつい冗談を言った。
私はこの学校の図書室が好きだった。通信の学校は遠かった。進級したい理由なんてその時はそれくらいしかなかったと思う。それでも私は先生のその冗談を、起爆剤にすることができた。

結論から言うと私は、数学以外のすべての教科で80点以上を取った。その中でも英語は98点、クラス1位だった。
私は自分が誇らしかった。やればできるじゃん、と思っていた。でも、それは違った。

授業終わりに廊下で先生を捕まえて分からないところを聞いたとき、それに応じてくれなかった先生はひとりもいなかった。午前の授業に間に合うように親が車を出してくれた。出られない授業は友達がノートを写させてくれた。受験のときにお世話になった塾の先生も嫌な顔ひとつせず教えてくれた。石岡先生は放課後、教室の後ろの黒板を使ってサインコサインの呪いを解いてくれた。

私は最近まで、これは自分の自慢話だと思っていた。できなかったことができるようになったサクセスストーリーだと思っていた。実際はサクセスストーリーなんかじゃない、例えて言うなら大きなかぶを、力を分散させて引っこ抜いた話だろう。かぶを引っこ抜くため、列の最後についてくれたのは石岡先生だった。

高校を卒業して10年が経った。卒業式の日、私は石岡先生にお礼を伝えるのをすっかり忘れて家に帰ってきてしまった。先生と生徒なんてそんなもんだと言ってしまえばそれまでだが、それから10年、会ってもいなければ話してもいない。
私はあの時、冗談を冗談として受け止めていたらどうなっていただろう、と思う。冗談として受け止めなかったのは紛れもなく私だが、その言葉をかけたのは石岡先生であって、私自身ではない。あのとき、なにかひとつでも欠けていたらどうなっていただろう、わからないけど、今こうして穏やかにこの話ができるのは、この話がもう過去のものだからだ。

ミスiDの自己PRに、石岡先生にかけられた言葉を書いた。今読んでもめちゃくちゃな言葉だが、それは小さな熱を持って、私の心の中心に近いところで光り続けている。この話も、その言葉も、私の大事な足跡だ、そしてこの足跡は、私だけでは踏めなかったものでもある。

あの時の数学の点数はたしか65点、80点には届かなかった。
61点も上がった喜びと、進級できないという絶望でぐちゃぐちゃになっていた私は、石岡先生にどう見えていたんだろう。結局私は石岡先生にかけてもらった情けだけで進級し、その後高校を卒業し、こうして生きては祝日の朝なんかにnoteを書いている。
旅は道連れ世は情け、たしか小学生のとき、辞書で見つけて気に入っていた言葉を、身をもって体感した出来事だった。

石岡先生がこのnoteを見ることはまずないと思う。まず石岡先生という名前からして偽名だし、私のこのnoteがそこまで広まるようなものかと問われれば、そうじゃない。これは本当に個人的な、小さな1人の女子高生の話だ。見られないことを良いことに、ここでは好き勝手言っておきたいと思う。

あの時私に関わってくれた方々、ありがとうございました。そして石岡先生、私はあなたの言葉をおそらく一生、胸に抱えて生きていくような気がしています。あなたが先生としてどうだったのかはわからないけど、少なくとも私にとっては、影響力のある方でした。
私は銀行強盗をしないでしょう。銀行強盗をしないでも存在していけるのは、いただいた言葉が私の一部になっているからです。

卒業式の日に言えませんでしたが、大変お世話になりました。これから寒くなりますが、どうかお身体に気をつけて、健康にお過ごしください。

1年2組27番 無限

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