決戦! 長篠の戦い その30

前回に引き続き、織田信長についてみていきたい。
信長を語る時、世界の情勢を抜きにして語ることはできないだろう。
長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)に勝利できた信長の勝利の要因は何だったのだろうか。
6月末にNHKで2週にわたって放送されたドキュメンタリー『NHKスペシャル 戦国 激動の世界と日本 』。地球規模の視点から戦国日本の驚きに満ちた姿を描いたシリーズ。1周目は天下統一をめざす織田信長と豊臣秀吉が、宣教師やヨーロッパの大国と繰り広げた熾烈な駆け引きに迫る内容。2周目は徳川家康の天下取りの時代。世界の覇権を巡り、日本の銀を狙うオランダとスペインの熾烈な攻防に迫る内容であった。
海外で発掘された最新の資料に基づいて明るみにされたポルトガル・スペインのアジア征服計画。それを裏付ける宣教師の日本での発言とヨーロッパへの報告文書。今回はこのNHKシリーズで放送された内容をもとに当時の状況をみていきたい。

織田信長+ポルトガル(キリスト教) VS 武田軍

1571年のレパントの海戦。スペインを中心とするキリスト教国と、イスラム教国のオスマン帝国との戦いであった。戦いの末、キリスト教国が勝利した。
その後、ポルトガルやスペインは世界をキリスト教国にすべく海外進出。ポルトガルの船は日本にもやって来て、キリスト教の布教を推し進めようとしていた。
長篠の戦いで織田軍の鉄砲で使用されたと思われる弾丸。その成分はタイの鉱山で採掘された鉛であることが成分分析で判明した。ポルトガルは日本を侵略するために日本人をキリスト教に改宗させようとしていた。つまり日本人の心を奪い、精神を支配してキリスト教国にしようと企てていた。そのために当時の戦国武将である武田勝頼や上杉謙信、北条氏政、毛利家などの中で一番日本を統一する可能性が高いと思われた織田信長に接近した。
信長は宣教師カブラルにキリスト教の布教を認めさせる代わりに大量の軍事物資をポルトガルから輸入させた。秀吉は宣教師の企みを信長に助言した。だが、信長は宣教師の計画を察知しつつもキリスト教の布教を認めた。それは日本にとってリスクでもあったが、信長にとっては鉄砲をはじめとする大量の軍事物資は全国統一を目指すために必要なものであった。そして、宣教師にとってもキリスト教の布教は日本の支配に必要なことであった。
1575年、信長はこの大量の鉄砲を使用して武田軍を打ち破った。武田軍も鉄砲を所有しており、ある意味では設楽ヶ原の戦いは鉄砲対鉄砲の戦いでもあった。だが、その鉄砲の量で武田軍を上回る織田軍は長時間におよぶ戦いで武田軍を消耗させ、退却させた。もちろん、その勝因はこれまで私のこのシリーズでみてきたように鉄砲だけでなく、織田軍の兵力数が武田軍を上回っていたことと、陣地の地形の利、兵力数を少なくみせた事なども関係している。
しかし、この大量の鉄砲の所有は信長に新たな戦法を創造させ、さらには戦術を工夫させた原動力となったはずだ。ポルトガルのキリスト教布教による日本征服欲は信長の武田軍撃破への原動力となった。それは苦手な東国の騎馬を扱う国々との戦いに自信をつけさせた。
この長篠の戦いは、織田徳川連合軍だけでなく日本征服を企むポルトガルというキリスト教国が加わった勢力と武田軍との戦いでもあった。ポルトガルは実際には戦争に参加はしていないが、キリスト教を布教して日本を支配しようという意思が鉄砲という武器に形を変えて戦場に参加していたともいえる。ちなみに武田軍は晴信が信玄という名の僧になったくらいだから、仏教国であったと言える。甲斐の身延山の久遠寺は日蓮宗の総本山として有名だ。

織田信長+スペイン(キリスト教) VS 本願寺(仏教)

1580年、スペインがポルトガルを併合。フェリーペ2世はインドのゴアを強制的にキリスト教に改宗させ、反逆する者は処刑した。その後もフィリピンなど東南アジアを植民地化し、日本征服の計画を継続する。彼等にとって最も邪魔な勢力だったのが本願寺をはじめとする仏教勢力であった。宣教師達はキリシタン大名であった摂津の高山右近に信長に味方するよう働きかけた。この結果、信長は高山右近のキリスト教信者の軍勢一万を味方にしたことによって、本願寺との戦いに勝利した。
これで天下統一目前となった織田信長がキリスト教に改宗すれば日本をキリスト教国に作り替える早道になるはずであったが、宣教師の思惑どおりにはいかなかった。信長は自分の家臣や身内がキリスト教に改宗することは認めたが、自身はキリスト教に改宗しなかった。改宗するどころか、日本の支配者として自分自身を神と名乗った。これには宣教師たちも唖然としたことだろう。当時の資料の中で宣教師は「信長は意のままにはならない」と書き記している。
信長が自分が神であると言った事についてであるが、信長はどういうつもりで発言したのだろうか。まさに独裁者として自分こそが神であるという意味で発言したのか。それとも自分の外には神はいない、自分の内にこそ神はいるのだという精神的に波長の高い意味で発言したのか。私にはそれは分からないが、興味のある部分だ。
安土城の屋根の色は青色だったようだが、それと同じ色を唯一認めていたのが宣教師の建物の屋根であった。信長と宣教師の密接な関係が感じられる。
そのような中、宣教師たちは次に九州の長崎を拠点として布教を広めようとした。九州の大友宗麟をはじめとするキリスト教信者は10万にも増えていた。この時期、宣教師たちは信長に「そち達は日本で何がしたいのか?」と質問された時にはっきりと次のように発言している。「私達は日本人の心を奪いにきた」と。
1582年3月、武田勝頼は織田・徳川軍の甲州侵攻を受け天目山で嫡男の信勝、北条夫人とともに自害。同年6月には本能寺の変が起きて信長がこの世を去る。信長は甲州征伐の後に東海を西へ凱旋中に、駿河で富士山を眺めたという。この富士山を仰いでいる夢のようなひとときに信長は何を考えていたのだろうか。まさか数か月後に本能寺で明智光秀に討たれるとは夢にも思っていなかっただろう。

豊臣秀吉とスペイン、徳川家康とオランダ

信長が没した後、秀吉と柴田勝家が争った。宣教師が次に勝利すると考えたのは秀吉であった。宣教師はキリシタン大名の高山右近に秀吉に味方せよと助言した。その結果、秀吉にはキリシタン大名たちが従った。そのため秀吉が勝利し天下統一に近づいた。この時、スペインは積極的にアジア攻略を命じていた。特に明(中国)を征服することを考えていた。そこで日本を利用しようと目論んだ。日本は鉄砲を独自に進化させて世界でも稀にみる軍事大国に成長していた。アジアの中でも好戦的な国であると宣教師によって報告されている。この軍事力を使って中国をキリスト教国にする戦略を練っていたのだ。
そして秀吉の次なる狙いも明への出撃であった。その足掛かりとして軍勢を朝鮮半島へ出兵させた。偶然にも宣教師たちの狙いと一致。宣教師たちは秀吉にスペインの軍艦を貸し出すことを提案し、キリシタン大名たちも意のままに動くであろうと朝鮮への出兵を促す。この時キリスト教信者は30万人にまで増加していた。そして秀吉は朝鮮へ出兵する。だが秀吉にはもう一つの狙いがあった。それは黒田長政、蒲生氏郷、黒田官兵衛、高山右近などキリシタン大名達を朝鮮出兵の最前線に立たせて彼らの勢力を弱体化させることであった。その結果、キリシタン大名に犠牲が多く出た。さらに秀吉はバテレン追放令を出し布教を禁止した。
さらにこの後、宣教師たちによって想定外の事態が起こった。秀吉はスペイン領であったフィリピンの金を狙い始めたのだ。この金を朝鮮出兵の資金源にしようと考えたのだ。この情報を得たスペインは不測の事態に備えた。まさに日本とスペインとの間で、世界で最初の世界大戦が勃発するかもしれない緊張感をはらんでいた。しかし、1598年、フェリーペ2世が急死。わずか5日後に豊臣秀吉も死亡した。
これによって豊臣家と徳川家の戦いが始まる。この頃ヨーロッパでは新興国であるオランダやイギリスが台頭。オランダはキリスト教の布教ではなく経済力で世界に進出しようとしていた。世界で初めての株式会社である東インド会社を設立。そして日本の佐渡銀山に目をつけ徳川家康に接近する。これに焦ったスペインも家康に接近し軍事物資の輸入と引き換えに佐渡銀山で採掘した銀の半分をスペイン所有とし、なおかつキリスト教の布教を条件にするよう家康に迫った。だがオランダは布教を条件とせずスペインの策略を家康に伝えた。そのため家康はスペインに不信感を抱きオランダと手を結んだ。
一方、スペインは家康と敵対する豊臣秀頼と手を組んだ。関ヶ原の戦い、大坂の陣で徳川家と豊臣家の戦いが行なわれたが、家康はオランダから仕入れた大砲を大坂の陣で大坂城に打ち込んだ。大坂城は砲撃により戦意を喪失。こうして徳川家康の天下となった。オランダは約束どおり銀を大量に入手して日本から本国へ運搬した。戦争のない時代になり行き場を失った武士達の中には傭兵として海外へ進出する者が現れた。ヨーロッパの植民地戦争の最前線で活躍して収入を得ていた。

こうして見ると、戦国の日本は遠く離れたヨーロッパ諸国の思惑が絡んだ時代であったと実感する。だが、日本は他の東南アジア諸国のように植民地政策が進まなかった。当然ながらキリスト教の布教もそれほど進まなかった。
日本をキリスト教国にしようとしたポルトガル、スペイン。そして日本の高い戦力を使って中国を侵略しキリスト教を広めようと企てていた。日本は思惑通りにキリスト教布教が進まず、逆にフィリピンを巡ってスペインと豊臣政権の日本による世界戦争が勃発寸前であった。
将来には世界戦争が勃発していたかもしれないキリスト教侵攻の影響を受け始めていた1570年代の戦国時代の中で、長篠の戦いはまさにその最初のキリスト教勢力の思惑が絡んだ大きな国内大戦であったのかもしれない。

その31へ続く

↓【おまけのコーナー】↓

当時、日本人の女や子供を奴隷として売りさばいていたポルトガルの宣教師と日本の大名の悪行についての資料を添付しておきます。

● ↓ 動画編 ↓

↑ 【真実の日本】日本人がヨーロッパに奴隷として売り飛ばされていた!【東アジアの世界から】
「東アジアの世界から」さんのチャンネルより ↑

● ↓ 文章編 ↓


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