ほとんど生活、みたいな表現のこと
仕事の帰り。友人のbarに寄り道。
いつもはもっぱらビールだけど、今日はアップンバーボンジンジャーの気分。
キュートなりんごの香り、バーボンとろっとした甘さ、ジンジャーエールのハッピーなしゅわしゅわ。完璧な飲み物なのだろう……
をゆらゆら味わっていると、カウンターの中の彼が煙草に火をつけながらこんなことを話し出す。
「世の中にはさ、自分が何か『表現』しないと生きていけない人間と、『表現』の消費だけで生きていける人間の二種類がいると思うんだよね」
酔いでふわふわした頭で、ふむ、と思う。なんとなーくわかる。
言うまでもなく彼は前者の人間だろう。実際彼も自分は前者の人間である前提で話していたと思う。
音楽とギターを愛していてどこかスナフキンのような雰囲気の彼。わたしは彼がうたう「怪獣のバラード」が素晴らしく大好きだ。
天井や壁にかかる流木、気まぐれな音楽、不安定でダウナーな裸電球、ときおり香るKUUMBA INTERNATIONAL。無国籍で多国籍でローカルで、ロードトリップの途中みたいな空間。この場所も彼の「表現」そのものだと思う。
ひっかかったのは、彼が「俺らは、前者の人間だからー。」と、わたしも「何か『表現』しないと生きていけない人間」に含めたことだった。
わたしにその意識と自覚はなく、何がそうさせているのか気になった。そして思った。そもそも「表現」ってなんだ…。
*
そんなことが頭の片隅にあるタイミングで又吉直樹の「人間」を読み、あるセリフに目がとまる。
たとえば産声と同じ純度で、何か言葉を正直に発したことがあっただろうか。
すごいことを言うなー。しばしフリーズしてしまった。
そして直感的に「産声が表現ならば」ということを思った。
*
それまでわたしは、音楽、美術、文学、演劇など…「表現」をかなり限定的な視点で見ていた。自分からは少し隔たった場所に存在しているというか。
けれども「産声」。
生まれた瞬間の「産声」が人間の一番最初の表現であるとするなら、後に取得した泣く、笑う、怒る、しゃべる、歩く、走る…そのすべてが「表現」なのかも。
*
小さい頃、ピアノとかけっこが好きだった。
しかしピアノは中学でやめてしまったし、走ることも大学卒業と同時にやめてしまった。その後はピアスづくりにはまり、今はこうして書くことが好きみたい。
どれも続かなかったなーと思いつつ、でも手段を変えて「表現」は続いているのかもしれないなー。
そして「表現」は、なにも外に向かうものばかりではなくて、自分の内側に向かう「表現」ってのもきっとある。
自分のために花をかざったり、料理をつくったり、コーヒーをいれたり、日記を書いたり…。
なんというか、“ほとんど生活”みたいな表現も大切にしたいなーと、そんなことを思う秋の日。
ぐっと寒くなったねぇ。
毎日空がとってもきれいだよ。
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