思うこと(Ⅱ)

「一部分を見て全てを捉えた気になっていないか?」
と、思うのは年齢問わず気になってしまう。

不満や愚痴は、そりゃあるだろうよ。

そればかり見て「○○ハラだ」とばかり言っていたら
自分もいつしか「老害」と言われるような人間に
なるとは思わない?

転職したっていい。
逃げたっていい。

だけどね、一定数いる人間はどこにでもいるものなのだよ。

そもそもジェネレーションギャップなんぞ
人類が誕生してその人類2世が生まれた時から
ずっとあるもの。

これからも形は変われどあり続けるもの。
だから、答えがないもの。

永遠に答えがないものに
「昔は~」とか
「世代が上の人は~」とか言っても
時間がもったいないとは思わない?

例えとして、ジェネレーションギャップがわかりやすいかな
と思ったから書いたものの長くなってしまったね。
申し訳ない。

何が言いたいのかと言うとね
自分のことを「一部分」だけ見て
「こんな人間だ」って判断されたらどう思うのか。

それは、精神疾患当事者も同じなんだという事。

動けない『時』に引きこもっていたら「引きこもり」と言われ
動ける『時』に外に出れば
「元気そう」「遊べてるじゃないか」と言われる。

精神疾患があっても、仕事ができている人でも
言われるんじゃないかな。

調子が良い時にはバリバリ仕事できるけど
調子が悪い時にはそうはいかない。

波があるのは誰でもなんだけれど
精神疾患者は、周りよりもそれが顕著にでやすい。

それを「前はあれだけできてたやん。」
みたいに言われる。

いや。こっちだってそうしたいんよ。
でもそれができないんよ。

それが積み重なり過ぎたら症状が悪化する。


自分の正解は他人の正解じゃない。
年齢問わず、頑固であればあるほど
他人の意見を聞かなかったりする。

それは、理解以前に
「知ることをしないから」なんだと私は思う。

まず知るべきは
「自分も他人も完璧なんかじゃない」ってこと。


なんで、症状やら過去やら書いてきたのか。

その理由はね
理解てがきなくても知る事で
『誤解』を少しでも減らしたかったから。

重要なのは「理解できないこと」じゃない。
「誤解すること」の弊害の大きさ。

知ることで理解が深まるとは限らない。
知らないことで誤解は生まれる。


双極性障害のことを
「理解して欲しいとは思わない」けれど「知って欲しい」
とは、そう言うことだ。

今まで書いてきた症状やバックグラウンドは
私の事でしかなく「一例」でしかない。

だからこそ、これをきっかけに
知ってほしいし、知ろうとしてほしい。

そして、考えてほしい。これからのあり方を。

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