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社会人という単語が嫌いだ

はじめまして、美術家の新造真人(@makotoshinzo)です。

ぼくは「社会人」という単語が嫌いです。
これまで何度もこの単語を耳にしてきて、その都度なんだか嫌な気持ちをしてきた。社会人という単語を使う人は、どうにも何かを排除しているような気がします。


ここからは長くなるので、私の考えを最初に表明しておきます。

社会人という単語は、色々な人々を、社会から排除しようとしている。制度的にも、無意識的にも。人間は生まれながらにして、社会的な存在であり、社会人という単語によって排除されている人々も含め、社会は成り立っているのでは無いか。

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「社会人」の定義 - Wikipedia日本

そもそも定義なんてあるのでしょうか。私は、この単語が破綻しているような気がします。この単語は「社会」と「人」という単語で構成されており、どんな立場であろうと、誰もが社会的な存在だと考えています。ミミズだって オケラだってアメンボだって。みんな、みんな、社会に存在している人は「社会人」なのではないでしょうか。

Wikipediaで調べてたところ、以下のように書いてありました。

社会人(しゃかいじん)は、社会に参加し、その中で自身の役割を担い生きる人のことである。一般的には学生は除外される。 ただし一部の学生も社会人と呼ばれる場合がある。 

日本語以外の諸外国語では日本で言うところの『社会人』をさす言葉はほとんど見られない。たとえば英語ではworker(労働者)やadult(成人)、citizen(市民)という単語はあるが、日本語の『社会人』にあたる単語・表現はなく、最も近い言語では『participant in civil society』。

                    wikipedia「社会人」より引用


定義の中には「社会に参加し、その中で自身の役割を担い生きる人」と書かれている。これは全ての人に当てはまりそうだし、その要求レベルによってはとてつもなく難しそうに感じます(私は、私の役割を果たせているだろうか。私には、これは"天職"と呼ばれるようなものに感じる)。

「一般的には学生は除外される」と書かれているのはなぜだろうか?
また、一部の学生が社会人と呼ばれる場合とは、どんな場合だろか?

ここからは2つの疑問があります。

1. 学生は社会に参加していないのか?
2. 赤ん坊や、ホームレスなど学生ではない人たちは社会人にふくまれないのだろうか?

これら2つについて、下に考察していきます。

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学生は社会に参加していないのか?

私が普段の生活の中で「社会人」という単語を耳にした時、大抵その定義は上にあげたwikipediaのようなものではなく、「お金を稼ぐこと」と密接に結びついているように感じます。

私の通った大学には、学校に通いながらアルバイトをしている人がたくさんいました。中には、月に20万程度アルバイトで稼ぐ人も。その人は学業をこなし、長期休暇には留学にも行っていました(すごい!)。他にも、学生証を持ちながら、起業をしたり、デザインやプログラミングなど自営業の友人を沢山知っています。

多くの学生は、大学卒業後には就職という道をとります。4月1日には入社式がある会社も多いが、学生だった彼らはその日に途端に「社会人」にメタモルフォーゼするのでしょうか。では、還暦や別の理由で会社を辞めた人は、次は何になるのでしょうか?

様々な理由があるでしょう。しかし、そういった個人的な事情に関係なく、私たちは社会と何かしらの繋がりを持っていたし、その繋がりのあり方が「会社に属しているかどうか」によって断ち切られることはありえないと思います。

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赤ん坊は社会に参加していないのか?

学生でもなく、会社員でもない人は、この世界にどれくらいいるでしょうか。まず、考えられるのが赤ん坊です。彼らは言葉も話せないかもしれないし、自分の意思で身に付けたい服をまとうこともできないかもしれない。しかし、いずれ自我を持ち自らの意思を表明しはじめます。赤ん坊の成長のためには、家族やソーシャルセクターの存在が必要不可欠であり、赤ん坊から大人たちが学ぶことも大いにあります。

私は赤ん坊を育てた経験はありませんが、彼らの成長に立ち会ってきました。これまで何度も触れ合ってきた過去があり、その経験から考えるに、赤ん坊は高度に社会的な関係性を示す重要な存在です。現在から、そして未来から彼らの存在は熱望されています。彼らがどんな道を歩み、起業、デモ、就業、犯罪、失業、革命etc...を起こそうが、彼らは社会的な存在であると言えると思います。親子という単語を見れば、"親"と"子"の相互補完的な関係は一目瞭然かと思います。

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ホームレスは「社会人」という単語に含まれないのか?

私は去年末に小田原に移住しました。小田原駅には1人のホームレスAが暮らしています。話したことはないし、Aに聞いてみたこともありません。普段、Aが何を食べ、どこで眠り、何を好んで、どんなことを考えているか、何も知りません。しかし、その出で立ちから、私はAのことホームレスと認識しています。

(小田原にきた友人にAのことを尋ねられた時、彼の口からホームレスという単語が出現したことから、私以外の人からも、Aはホームレスとしてみられているように思います)

小田原をはじめ、東京にも、日本中にも、世界中にも、ホームレスはいます。これは社会的な事実です。延期になった東京オリンピックのためか、近年、ホームレスの存在を隠したり、町から追い出すような政策がたくさんみられます。公園のベンチは眠れないように間に仕切りが置かれ、横になれるようなフラットな平面が町から消え、有機的で曲線的なデザインのベンチが都市部で見かけられうようになりました。

これらの政策で、たしかに、ホームレスの存在は町から見えなくなったかもしれません。しかし、そういった町の中の小さなデザインや政策は、明らかにホームレスを意識しているし、排除しようとしているように感じます。

また、こういったデザインがなされている町は、多くの人にとっても、休みづらく、居心地の悪いデザインでもあります。居眠りができず、疲れた時に横になるような社会的環境が、政策によって退けられているからです。町は、休息のための土地を有せず、移動し、経済を回すためだけのフィールドなのでしょうか?

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ホームレスとは状況であり、人のことではない

私は、ホームレスの現状を知りません。専門家でもないから彼らを「印象」でしか語ることができません。私の印象では、ホームレスは一般的に社会人という語の中に含まれていないように感じます。しかし、ホームレスという存在は、非常に社会的な存在であるとも言えます。なぜなら、「ホーム(家)」と「レス(無い)」という2語によって、私は彼らのことを語ろうとしてきたからです。少なくとも私にとっては、ホームレスは社会を構成している要素であり、現在の社会そのものです。

まず、「ホーム」「レス」という2語の中を探るだけでは「人」という存在は見えてきません。「ホームレス」という単語から見えるのは、「家が無い」という状態だけであり、人への言及には至っていません。つまり、この状態を表す語を、私が小田原で見かけたAという人物に当てはめたことには、私はそのAの個性ではなく、「Aが社会の中でどのような状況に置かれているように見受けられか?」からAを定義しようとしたということになります。

(これは余談になるが、私はホームレスへの認識を数年前に改めた。その話をすると長くなるが、興味のある方はぜひ坂口恭平の著書「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」を読んでみてほしい。それを読んでからの私は、「家に住んでいる私たちの方が、ホームレスなのではないか?」とコペルニクス的転回な実感を抱き始めた。)

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「社会人」から排除される人々

また、「社会人=会社員」という公式すらあるように感じます。これは、私の思い込みかもしれません。詳しい数字はわかりませんが、日本の現状で非正規雇用者やアルバイトはすごく多いように感じます。正直、日本を支え、さらには犠牲にされている存在のように思えます。

他にも、引きこもりであったり、様々な立場、様々な理由で「会社員」では無い人、積極的に会社員になろうとしない人、色々な人がいるように思います。私には、そうした人々が「社会人」という単語によって社会から排除され、制度・政策によって差別的な扱いを受けているように感じます。

これは、私の偏った考え方かもしれません。しかし、実際に社会的な制度を決めている人々の中に、どれだけ「社会人の外側」にいる人がいるでしょうか。女性の権利やLGBTQに関する政策を決めている人の中に、どれだけそういった当事者がいるでしょうか。

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