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練習中は水を飲んではいけない「プレイ」を仕事に持ち込んではいけない

3年前から僕は近くの小学校で実施されるラジオ体操に子ども達と一緒に行っている。子どもはラジオ体操が始まる前に遊具で遊べることを楽しみで眠い中でも喜んで付き合ってくれる。

長女は夏休み真っ只中。
僕の学生時代の夏休みの記憶は、なんとなく始まって、なんとなく過ぎていくので楽しい記憶はあまり残っていない。 

僕は、小、中、高の学生時代、夏休みはこの炎天下の中でひたすらスポーツで汗を流した。身体の限界まで追い込む長時間の練習はそれはもう過酷であった。

1992年のバルセロナ大会で、岩崎恭子さんが「今まで生きてきた中で一番幸せ」こんな名セリフとともに国民的ヒロインとなったが、多くのことに犠牲を払い極限まで身体を追い込むスポーツの世界で頂点に立つということは、それほどの喜びのあることだと知った。

練習中は水を飲んではいけないプレイ

あまりにも馬鹿げているが、少なくとも25年前までの運動部はこれが常識だった。
「練習中に水を飲むやつは甘えだ。」
まるで15時のおやつかのように水は休憩時間に飲むべき贅沢品の扱いだった。

「運動中に喉が渇いても喉が欲しがってるだけだから飲まないほうがいい」

こんな謎理論を僕らは「大人が言っているのだから正しい」と思って信じていた。しかし今思えば根拠のないスパルタ精神論だったと誰もが分かる。

練習中に水分をとらなくても比較的涼しい春や秋なら何とかなるが、それでも快晴だときつい。もちろん、真夏に耐えられるわけがない。だから監督や先輩の目の届かないところで隠れて飲んでいた。もう理論でもなんでもない。過酷プレイだプレイ。それかゲームだ。サバイバルゲームだ。筋肉脳でいかれてなきゃ、こんなのできっこない。

中でも中学時代の体育会系のノリが最悪で、1年生は奴隷、2年生は人間、3年生は神といったカースト制であった。
だから入部したばかりの頃は「1年生」という理由で中腰になって先輩の練習する姿を観ながら声出しをして過ごした。先輩が声が出ていないと判断すればバツとして運動場を無制限に走らされるなど、あまりにも馬鹿げた練習内容だった。

しかし多くの理不尽さはあったものの、それでも僕が小・中・高と運動部に在籍し続けたのは体育会系の良いところも享受できたからである。仮にもう一回、人生やり直すとしても僕は運動部に所属するだろう。

小さな大会でも優勝した時は皆で泣けるほどの達成感があったし、みんなで熱く目標を誓って汗を流した友人は今でもつながっている。
また実力さえあれば学年に関係なく活躍の場を与えられる評価制度は、「偉くなると」あぐらをかいてサボりがちになる会社組織よりも公平性が高いところが僕には心地よかった。

会社で体育会系のノリを持ち込むと今の時代必ずハラスメント問題にぶつかる

かれこれ数年前のことだが、僕の隣の部署の管理職が「俺は野球部で人間力が鍛えられた」と口癖のように言っていた。

こういうことを職場に持ち込んでまで言うのは「中高の6年間辛い練習や厳しい上下関係などに耐えて過ごした俺は人間的に成長している」という錯覚を引き起こしている所以だと思う。

たしかに多くの高校野球部で言えることだろうが、上下関係は他の部活と比べても厳しい傾向にある。先輩を構内でみつけると無駄に大声で「こんちは!」とか「あざっす!」と不自然極まりなく、やらされている感の挨拶をしていた。髪の毛も一律で坊主頭。同調圧力なのか「昔から坊主頭が当たり前」「強いチームは皆坊主頭」という旧態依然とした習わしに倣っただけの思考停止状態なのか知らないが最早、軍隊を名乗ったほうがいいレベルの立ち居振る舞いであった。

そんな社会で「人間力が鍛えられた」と誇示する管理職がいる部署の社員は、上司から呼ばれたら小走りでその人のところへ行くという謎の風習があった。たった10〜15mくらいの距離を駆け足でいくのだ。

「急いでいくという態度を見せる」という忠誠心だと思うが、その空気を理解できない第三者からするとドタバタうるさいだけだし、たまに歩いていると飛び出してきてぶつかったり危なくて仕方がなかった。

上述した通りバリバリの体育会系でやってきた僕だが、会社と部活は根本的に違うと理解している。

体育会系の特徴である「礼儀正しさ」に関しては共通ではあるが、「下には強く、上には弱い人間関係」や「強い精神力」に関しては全く違う。
会社で求められるのは、状況に応じて対応できる柔軟性や誰かに言われなくても自分から高い目標を設定してアクションを始める能力、また役職関係なく異見(ことなる意見)を堂々と言うことである。
※自衛隊、救急隊、警察など人命に関わる仕事は除く

また、体育会系のノリはどうしても性質的に現在社会問題化しているハラスメントに紐付きやすい。立場が上の者から下への一方的な押し付けになりやすいのだ。本人は盛り上げるためにやっているのかもしれないが、それが受け付けられない相手にとっては鬱になるほど不快だったりもする。

職場には体育会系もいれば、文化系もいて文化系の寡黙さで会社に貢献している人だって数多くいる。だから根本的に土俵が違う会社組織に体育会系のノリを持ち込んむのはNGである。

最後まで諦めない、全力でやることは給料をもらっている以上、会社員としては当たり前だ。旧態依然とした習わしを重んじている人は、新しい議論の「内容」を合理的に判断することを苦手とし、むしろ「それは誰が言っているか」を重視しがちである。

絶対権力は絶対腐敗する

体育会系のひどい会社で耐えられないなら、他社に転職すればいいではないかと言う考えもあると思う。
それも話としてはわかるが、時代背景からして近い将来、体育会系の「トップに権限が集中する」主従関係は必ず時代遅れになる。

そして古来からの格言どおり

「絶対権力は絶対腐敗する」のである。 

体育会系の考え方は伝統ではあっても、日本古来からの思想とは異なる。
取り残された人間ほど悲しいものはない。
理不尽がまかり通る会社における「体育会系の文化」は変わるべき時期を迎えたのかもしれない。 

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