「他人」の壁

プレミアムメンバー専用記事です。
まだ十分に言語化されてないことを思いつくままに書いてます。

養老孟司さんと名越康文さんの対談本、「他人の壁」を読む。
一貫して二人が言っているのは、意識と感覚の違いについて。

意識はお金のように、異なるものを同じ意味とみなして交換可能にする。
感覚は逆に、同じように見えるものの違いが分かるようになること。

意識は統合し、感覚は分割する。意識では同じ虫ばかりに見える昆虫標本も、一匹づつ違うように見えるのが感覚。

日々意識化されていく世の中で、どう感覚を鍛えるのか?これとこれは同じように見えて違うのでは?という違和感を手がかりに、その違いを突き止めようとする好奇心で、分かった!という興奮を楽しむしかない。

---本については以上--

意識と感覚、というテーマは物語で延々と登場する。意識、交換能力を発達させて世界を支配する王様から、どうやって感覚で立ち向かうのか?

例えば「そして父になる」という映画も、エリートだが家庭をかえりみない父親が、貧乏だが家庭の幸せいっぱいな家族と交流することで、はじめて父の感覚を得る物語だ。

この価値観の交差こそが、物語の原点だという人もいる。というのはこのジレンマはとてもよくできていて、生活を保つお金は意識による交換によって生み出せるが、幸せは生物的な感覚、小さい自分の子供がご飯を美味しそうに食べている様子を見るだけで幸せだ、という本能的なところにあるからだ。

なので意識を発達させて儲かっても、その意識を高めるために感覚を忘れてしまったらかえって不幸になる。一方で感覚だけを鋭くしていっても世間からずれてしまうので貧乏になっていく…という永遠のジレンマなのだ。

ただ未来は明るい。最近のクラウンドファウンディングや仮想通貨周りの動向をみていると、どうも世界は、才能という感覚を、できるだけ自由に交換するような方向に動いている。これは感覚と意識のうまい統合だ。

才能というのは評価しにくい、よって交換しにくいものだ。だから特定のパトロンや企業が養っていたのだけど、ネットによって才能を市場で値をつけようとする動きがでている。この動きについては別途書きたいけど、意識と感覚のジレンマが人間の永遠のテーマだとすれば、未来はこのジレンマをどう解消するのか?という方向に向かうのは必然なんだろう。

世の中はこれからどんどん面白くなっていきそうだ。

読んでくれてありがとう!