自信がないことを自信にする
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この度の災害で被災された方に心よりお見舞い申し上げ、犠牲となられた方に哀悼の意を表します。
まだまだ余震も続いていたり、不安や不便な状況で心休まらない中にお過ごしの全ての皆さまのご安穏を心よりお祈りしています。
また比較的安全な状況下にある方も、不安や心を痛めておられる中に、その心が少しでも癒されますように。
(辛い場合は無理に情報に接することはなく、ご自身の心身が守られる範囲で被災地を思いながら、日常生活を生きることが支援に繋がると信じます。助けられる状況の人が元気や健康であることが、助けが必要な人にそれを最短で届けるために重要な役割を果たすはずです。)
私がここでえらそうに申し上げることでもなく、私こそ何もできません。そしてそもそも誰も見ていないかもしれません。いろいろご容赦くださいませ。私は私の日常生活をしっかり生きていきます。
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私はいつも自信がないタイプである。
でも私にとっては、自信は誰かが私に持たせてくれるものではない。
少なくとも両親等からそれを無条件に持たせてはもらえなかった。(これは恨み事ではない。)
"自分が自分を信じてあげること"これは本当に難しいけれど、度々それがしたいと思っている。
根拠のない自信も持っていたりしたいけれど、いつも心配の方が多い感じがする。
だからもういっそ自信を持てるようがんばるよりも、自信がないことを自信にしようと思う。
ちょっと意味がわからないが。
こんな私であっていいのではないか。
自信がなく怖がりな自分だからこそ、得られているものの方を大切にしよう。
自信の持ちやすい自分であったなら、得られなかったものが沢山あるのだから。
全く自分の不得意なものを求めて遠い道のりを選ぶのではなく。
何億光年かけて、自分と真逆の自分を迎えるためにと途方もない努力するよりも。(そういうのも時に大事)
マイナスなことも、全て自分を認めてあげるためには、全てをプラスに転じて考える。
だってこの世界はきっと、幸せか不幸せかが存在するのではなくて、考え方や心の向け方で自分がそのいずれかを選びとる自由を常に皆平等に与えられているものだからだ。
いつだって、人は今すぐ今から幸せになれる。
この自分の考えにのっとり、自分の短所に対して考え方を変えてみる。
そして、幸せを感じることや喜び、感謝は自分を褒めてあげて、認めてあげてから、そこに繋がっていくことが多いのではないかと最近気付いた。
一足飛びにそうしようとするから、無理があったのかもしれない。
そしてまたそれを持てない自分を、無意識のうちに責めたりして悪循環になっていたかもしれない。
ありがとうと言ったこと、言われたこと、誰かの思いに思いを馳せたこと、グッとこらえて笑っていたこと、人を楽しませようとしたこと、腹が立っても許そうとしたこと、感情的になったけど反省できたこと、今できなくても次はやろうと思えていること、できない自分を知っていること、日常の中でも自分を認めてあげる機会は溢れている。
たとえ許せないこと、怒ることがあったとしても、許したい、怒りたくないと思っていること自体がすごいのだ。
やってしまった、できていない自分の部分ばかりに目を向けるんじゃなくって。
そうやって思えている自分もちゃんと見つめて受け取る。
その一つ一つはかけがえのないこと。
何気なくても。
また全部の感情が大切。
感情に振り回されないように、自分を縛られないようにしながら全てを私は抱きしめていたい。
私は不器用だ。
でもだからこそ、悩んだ分は最初からできていた人よりも、少しはやり方を考えてこられたと思う。
人間は不公平なのだと思う。
明らかにスタート地点は一緒じゃないもの。
だけどマイナスからのスタートだったから、そこまでの行き方を学んでこられた。いる。
もしこの先、一人でも自分のような立場の人に出会ったとき、これが何かの助けになるかもしれない。(ならないかもしれないが、なるかもしれない可能性があることが私にとって幸いだ。)
少なくとも、この道は人の苦悲への想像力を育ててくれた道だ。
最初から大体平均と思われるスタート地点にいなかったから、全てがある。
人は間違える。
でも私は自分の心の中に、間違えたときに帰る場所が元々なかった。
両親に褒められたことはないからだ。
少なくとも私には、親等から愛情を真っ直ぐ受けていれば、なんとなく掴めるかもしれない自分を肯定して保つ術を得る機会がなかった。
(自分を含めて人間は完ぺきな人はいない、私は自分の両親に愛情が一切なかったとうったえたいのではない。いびつでも不恰好でも伝わる真心や愛はある。)
大丈夫だよ
仕方ないよ
次は気をつければいいよ
私はそういう言葉をかけて自分を認めてあげられる場所を、なんにもない中に、自分で自分の中に一生懸命構築してきたし、これからもそれが続く。
(もちろん周りの人にかけてもらえる言葉は尊い。だけどそこに感謝しながら、自分で自分を認めてあげられる自分を作らなければ、問題は根本的に解決はしないのだ。)
この環境と自分の性質が重なって、私は間違いや失敗を過度に避けようとする生き物になっている。
でも。
間違ったら、その地点からまた踏み出していけばいい。それってやらなかったより、めちゃくちゃ前進。やってみたから、これは違うなってわかったことが収穫だ。
あと、一回の失敗が今まで積んできた全てを台無しになんかしない。何度だってそこからまたはじめればいい。
できなかったからこそ、やってしまったと思うようなことがあったなら、そこからまたスタートしていこう。
それを繰り返して、何度でもリスタートしていくことが生きること。
やり直しができない、取り返しがつかないことはほぼない。
そこから、を繋げていくことが大切なんだきっと。
そして、穏やかとは程遠い人生だから、なんの浮き沈みや上下もない平坦な感情の中には生まれないものを、私は確かに持っている。
嫌というほどに、自分の心や感情の揺れ動く様を目の当たりにしてきたからこそ、いかにそれらに向き合うことが時に大変で、忍耐を要するものかということを知ることができた。
こころも鍛えられたはずだ。
なんのために鍛えているのか。
起こること一つ一つに心奪われることなく、いつだってそこにある幸運と不運を自分の意志でしっかり選び取るためだ。
本来のまま、ちゃんと、私の心が私の元で自由であるため。
いいことがあるから幸せ、悪いことがあるから不幸ではない。
(次の瞬間何が起こるかは自分ではわからない、決められない。)
自分の持っていないものを持っているあの人も、私のできないことをしているあの人も、そしてこの自分もまたおんなじようにみんな素晴らしい。
これからは、
誰かを讃えるように自分も讃える。
そしたらちゃんと喜べるようになる。
喜びがないんじゃない。
私の中に確かにある、それを覆ってしまう何かがあったとしても。
そうだと早く気付いて心や身体が痛い時こそ自分を癒そう、労おう。
それは、こんなになるまで頑張っていた、いるということなんだから。
人には人の、私には私の託されたものがある。
命というものは、生きているということは、過去からの贈り物。
今この一瞬にいたるまで、どれほどの命を繋いで自分までバトンを渡されているのか。
宇宙、紀元2024年の中で、今この時ここで、そこで生きていることが大きな意味があると信じる。
だから。
私は私のままであれ。ある必要がある。感情も不甲斐なさも。
何度でも、転んでも、そこから。
2024年、前のめりでいこう。
逆手にとって自分を好きになろう。その分もっと誰かを思っていよう。