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4.演出の勉強をはじめる。

 
 私の大学生活に話を戻すと、演劇学科の「演出コース」の同級生は、上品でおとなし目の人たちが多かった。だが「舞台演出」を志す、ということもあり、馴染んでくるにつれてそれぞれ個性的で自我の強い人たちだということがわかった。そこでは調整力というよりも「芸術的センス」の有無がとても重視された。

秋の学園祭で初めて舞台の演出をやった。未経験で中途半端ではあったが、やり終えた充実感は強かった。打算なく無鉄砲でいることが許された時代でもあり、場所だった。当時の演劇学科の教授陣は、ほぼ演劇の現場で切磋琢磨した人々であったし(政治と演劇の間で苦悩した方々もおられた)、装置照明コースの同級生は若手劇団である「ショーマ」や「東京サンシャインボーイズ」のスタッフで働いていた。彼らからあたたかい言葉をかけてもらえたりして、そのことが自信につながったのだと思う。若い講師の方々は実習の現場で陰日向で支えてくれたことを深く感謝してもいる。ただ自分の至らなさにここでも「絶望」しかけていたが。
  本格的な舞台演出の実習は二年生から始まった。当時の演劇学科は「総合研究」と言って、俳優コース(日舞と洋舞コースもあった。同級生は仲が良かった)装置、照明、演出コース、教養コース(先駆的ではあるが、ドラマトゥルグ的なポジションだった。)がそれぞれのパートに分かれて作品を作った。新国立劇場が誕生する前の「新劇の最後の煌めき」の頃でもあり、戦後日本の近代戯曲を題材に1年に2本作品を作っていた。だから自分の演劇ルーツは「戦後の日本新劇」だし、最近の演劇状況には疎いけれど、おそらく「演劇というアートの根本的なところ」が、「人と人が出会い別れることのかけがえのなさを知るとともに、自らの社会やくらしについて自覚的になり、自らの幸せのためにも、未来を少しでも良いものとしていこうと努力する行為」が演劇である、と基本的には考えている。
 いくつかの幸運な出会いがあり、同じ年の人間たちの集団による適度な役割分担と、戦略的でよくまとまっていた大学の授業カリュキュラムと、情熱的な教授陣におかげもあって、舞台の実習は、とても良い形で楽しめた。何十年か経って当時の実習のVTRを観ても遜色ない出来で、「これ自分が演出したのかな?」くらいによくまとまっている。それはあの時代に起こった奇跡の一つだし、今も綿々と引き継がれているに違いない。
 舞台演出の何が楽しかったのか?・・・一言で説明するのは難しい。よく言われることだが滔々と自分のイメージを語り、スタッフや出演者にイメージ通りの仕事を要求する、というのでは演劇的なコミュニケーションが成立しない。結局は演出家や作家の初期のイメージというのは、演劇を作る上であまりたいしたものではないし、特に学生の集団のような力関係がフラットな場合、上から目線で何かを説得することはできない。かといって、作るべきイメージの統合作業をすることなく人間関係を作ろうとするのも、あまりうまいやり方ではない。
 一つのささやかなイメージをスタッフとキャストでこねくり回しながら、いい上演に持っていく、という作業が思いの外自分にあっていたし、結果としてすごく作品に力を入れることができた。才能がある、といろんな人に言われたし、何よりこの作業をすることで、心地よい疲れを感じることができたのは事実だ。
 そんな実習を通じてすっかり舞台演出のおもしろさにハマったので当然卒業後も自分でカンパニーをつくって息長く演出を続けていこうと考えていた矢先、父が肺癌で入院した。今まで家族の入院経験がほとんどなかった。動揺と狼狽のなかで、卒業後の生活は親を頼れない、という思いときちんと社会人として収入を得なくてはならない、という考えに囚われた。

 時代はバブルの絶頂期だったし、就職口は苦もなく決めることができそうだった。入院中の父親を見舞ったり、世話をしながら卒業制作(論文ではなく、舞台演出が卒業の審査となる)の準備をおこない、商業演劇系の演出部の採用試験を受けたり(残念ながら不合格)、自動車会社の試験を受けたりしたが(内定は出た)、「舞台演出を仕事としたい」という強い気持ちだけで大学を卒業して何かを始める、という明るい未来を描くことができず、介護のこともあり「人はみな、失われていく、崩壊していく」という「絶望」の思いを抱いていた。
 卒業制作は「ナイト・マザー」というアメリカの現代女性劇作家マーシャ・ノーマンの女性二人のシリアス劇である。自殺すると宣言した娘と母親のシリアスなドラマだ。シリアスなものの演出は自分には向いていたが、今となっては安易にメンバーを限定する(制作に関わったのが女性二人だった)のではなくてもう少し、何をすべきかを議論し、作品を選定し、メンバーのイメージを突き詰めたものを作りたかったと考える。
 4年間舞台の実習を行いながら、自分の好みであるとか、こんな舞台が好きなのだというイメージがつくようになったのはプラスだった。
 私が好きなのは、ストイックで生身の人間がぶつかるドラマだ。なので演出としてコミカルであったり、緩くあったりする要素、シーンをどう伝えるのか、は自分の課題だ。本当はコミカルだったり、緩い戯曲というのが、自分の作業を補完してくれるのでとってもいい。激しい愛情表現というのも、普段の私生活では苦手かもしれないが、演出ということではとてもやりやすい。それも私自身の未知の世界を空想で補うということだからなのだと思う。
 全ての俳優という人たちを、心から敬意を持っている。私には演じたり踊ったりということが、とても恥ずかしいし、うまくやれるとは思えない。それ以上に舞台から、客席に向かって何かを表現することの意味というのがよく理解できていない。生身の自分自身というものと、どちらかというと向き合いたくないというのが、正直なところなのかもしれない。

 大学を出てみたものの、社会に組み込まれるのだ、という諦めの気持ちを持ちながら、大手劇団で舞台監督のアシスタントをしていた。この仕事は全く自分には向いていなかったと思う。つまり、他人の演出というものを、咀嚼する回路を全く持ち合わせていないことに気づいたのだった。舞台監督という、どこまでも演出家の抽象性を具体的に解釈していくという仕事に、意味を見出せなかったのだ。その後歌舞伎、商業演劇の舞台の制作の仕事をしばらく続けた。チラシを作ったり、チケットを手配したり、案内係をしたり、雑用ばかりであったが、なんとかこなしながら会社が制作するダイナミックな構造を学ぶことができた。何年か働きながら、時間の空いた時に自分で劇団立ち上げて演出し、かなりアクティブに行動もできるようになった。
 海外の現代演劇や、コンテンポラリーダンスも都内で公演を行って、働く合間を縫って観にいったりした。また学生の頃は行くことのなかった独特の場所に遊びに行くことも覚え、いわゆる社会的に成功したアーティストと出会う機会にも広がった。彼らは基本的に謙虚で、仕事に誠実だった。
 

 30歳を目前に舞台演出を仕事に活かせることを考えて、公共ホールでのリージョナルシアター専任の演出スタッフという、財団職員で専門職という魅力的な職場に転職した。 昨今の公共ホールでは参加しながら舞台芸術の魅力が体感できるというワークショップが盛んだ。演劇のシアターゲーム的アプローチがあり、能狂言の謡舞があり、参加者も気軽に体験出来るメリットもある一方で、アーティストも直に新しい出会いの中で、自分の創作活動を見つめ直すことにもつながるので非常に好評である。しかしながらどこか本当の舞台芸術の魅力を希釈しているのではないか、と常に思うこともある。優れた舞台芸術の持つ緻密さや感動というものは、アーティストの弛まない身体トレーニングや、あるいは自己の創作への妥協なき挑戦、自分のイメージを伝え、補強修正を行う様々な、他のアーティスト、制作側、プロモーション、劇場とのキャッチボールがあり、そこでどう説得調整折り合いをつけていくのかが常に問われていく。そうしたクリエーションの厳しさを、少なくともワークショップでは留保しているので、結果クリエーションは安易なものといった誤解を招くことにつながる恐れもある。
結局8年くらい働いたが、日本の公共ホールに「リージョナルシアター」と呼ばれるものの需要と、アウトリーチやワークショップを劇場の指針と劇場専属のアーティストがおこなうことの意味、そのための環境整備が、現時点では発展の段階にあり、自らの知識経験を何か現実的に求められるのもの、に進化させるため、アートマネージメントの仕事を探すこととなった。東京に戻ってきたが、「制作」としてのキャリアは中途だったせいもあり舞台制作、アートマネージメントの仕事をなかなか見つからなかった。知り合いの会社でコンサートの演出をやらせていただき無事その会社に就職したものの、数本の舞台を製作しただけで、その会社が舞台製作からは手を引くこととなった。仕方ないとはいえ、職を奪われる切なさと不安というのは、こんなにも大きいのか、と実感した。
 
 
 現在、生まれた土地から離れた、古くからの知り合いのいない(学生時代からの知り合いはいるが)場所で生活している。この土地の特徴としては、冬が長い。そして雪が多く積もる。街中であれば除雪車も入る。ただ山中には入らないので、路面状況は芳しくない。凍結の道路を歩くのは、日によりとても困難を伴う。冬の朝の楽しみというと、美しい風景の中で昔の印象的な思い出に存分に浸れることである。
 例えば、恋人とはじめて旅行に行ったことを、今思い浮かべている。あの時の清々しい気持ちは特別だった。10月の箱根は、人影がなく、海岸の岩場には文字通り無人だった。その日の空は秋晴れで、文字通り空気は澄み切っていた。
 いつもあまり自信がなく、次にすべきことを考えながら、機嫌を伺っているという自分から完全に開放して心ゆくまで浜辺の散歩を楽しめた。きっとこれからはいいことが続くに違いないという完全な幸福が確かに存在していた。それは特別な瞬間で今にしてもその残滓が体の中に残っていると確信している。
 楽しかった思い出を記憶の中から思い出す行為は、実人生を肯定していくことができるのでとてもいい。生きた証とも言えるから。

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chaikaと申します。ここでは私の思いの丈を、わかりやすく、少し肩の力を抜いて、真面目に書いていこうと思います。アート全般、特に音楽と舞台が興味の対象です。アート系の大学を出て、30代までは舞台演出に関わり(仕事でも、フリーランスでも)40代以降はマネジメントを生業としてます。
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