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「お金」は所詮人がつくったものだけど

いつの頃からか覚えていないが、自分の独りごととして呟くようになっていた。「お金」は所詮人がつくったものだと。

信用経済で回っている以上、お金というものに価値を見出すのは当然のことである。

信用経済とは、1万円紙幣を1万円の価値があると信じる前提で動く社会の仕組み。仕組みの性質上、人の価値をお金で測ろうとするのも無理はない。

だが、それはひとつのモノサシでしかないのだ。

お金には意味もあるし価値もある。

けれども、お金で人の価値を測ることはできるという考えには賛成できそうにない。

とはいえ、お金の意味や価値を否定するということには抵抗があった。そんな私であったが、あるとき、その気持ちを解決できそうなヒントを目にする。

それは、「お金をどう扱うかで、その人の人物像が見えるからお金は大切だ」という意見だった。

確かにそういう視点はある。

お金を、自分のために使うのか、家族のために使うのか、世の中全体のために使うのか。そういう括りでお金の使い方を考えるだけでも、人物の印象は大きく変わる。

お金は所詮人がつくったものだとはいえ、決して軽んじてよいということではないのだ。

収入で人の価値を測らないとかいうのは「高尚な考え方」だといわれたこともある。裏を返せば、一般的に、人は人の価値を「収入」というモノサシで測っているということなのだろう。

お金は、人がつくったモノであり、人がつくったモノサシでもある。

そういう意味では、価値を測るひとつの基準となり得ることは大いにわかる。

けれども、そのモノサシにどれほどの意味を持たせるのかは個々人の裁量範囲。

そう考えてみると「お金というモノサシ」にどれだけ価値を置いているかという点も、人物像を知る手がかりになりそうだ。

「お金が稼げない自分には価値がない」という気持ちで、地獄の淵に追い詰められている人に話しても説得力はないだろう。

だが、敢えて私は伝えたい。

お金は一つのモノサシにはなり得るが全ての価値を測れる万能なモノサシではない。

「お金」は所詮人がつくったもの。

世の中の基準として「そういう価値があるということにしておきましょう」という取り決めでしかない。

お金には命をかける価値などないのだ。

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