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托鉢の僧侶に施しを

先日、都心へと出かけていたときのこと。

日本橋の下で托鉢する僧侶がいた。

僧侶のほうをチラッと見ながらも、私は急ぎ足で通り過ぎた。時間に追われながら所用を済ませる必要があったからだ。

そして私は目的地へと向かう間、父との記憶を手繰り寄せていた。

「この肩書があれば問答無用でOK」ということは、この世にはない。自分の目でみて心で感じて、相手の本質を見て人を選ぶのだよ。

初めて「路上で托鉢をしていた僧侶に施しをした」と父に伝えたとき、諭された言葉を思い出したのだ。

父の考えによると、托鉢をしている僧侶の中には乞食のような考えの者もいるのだという。僧侶の恰好をしてタダでお金をもらおうとするというのだ。

もちろん、修行僧として托鉢を行い、自らの悟りの道を究めようとする者もいるだろうけれど......と付け加えた上で、托鉢をする僧の本質を見極めよと父はいうのだ。

そして、「そのことを承知の上で自分が捨てても惜しくないと思う金額を施してみることだね」と言葉を添えた。

私は、それ以来、托鉢する僧侶に出会うと、自分の心の映る僧の姿を見つめる。市井の人として、人の本質を見極めることは、ある意味修行のようだ。

仮に「乞食のような考え」で托鉢をしているとしても、それを承知の上で、施しの気持ちを向けることも、人生修行のひとつ。

父とのやり取りを思い出しながら、所用を済ませて、再び日本橋へと足を向ける。

施しの気持ちとともに100円玉を僧侶が抱える鉢へと投げ入れ、私は手を合わせ、お辞儀をした。

これからも自らの人生修行を続けていこう。

自らの本質を磨き、目でみて心で感じた相手から「選ばれる人」になるために。