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父と私とジャイアンツ

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2019年6月に他界した実父との回顧録です。
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カンゾウの花に亡き父を想う

カンゾウという花をご存知だろうか? オレンジ色で花弁の形はユリに似ている。 八重咲の「ヤブカンゾウ」。一重で咲く「ノカンゾウ」など、いくつかの種類がある。一般的には朝に咲いて夕方には枯れる花と思われているようだが、夕方に一旦しぼみ、翌朝に再度花弁が開くモノもあるのだという。 正直、私の感覚としては、カンゾウは、一日限りの花だと思っていた。朝に咲いて夕方にはしぼむ花だと思っていたのだ。 そう思ったのには理由がある。 一日限りの花であることを理由に、亡き父はカンゾウの花

腰を低くしながらも決して舐められてはいけない

父の他界してから13ヶ月が過ぎようとしている。 一般的に、実父や配偶者といった近しい人の死に際して喪に服す期間は、13ヶ月。 この期間を、あまり意識してきたつもりはなかった。だが、ここのところ何か吹っ切れる感覚を立て続けに実感している。 「やはりそういうことだったのだ」とでもいいたくなるような出来事に遭遇してきているからだ。 ◇ 父は、私に対して、諭すような言葉をチョクチョクとかけてくれる人だった。 三人きょうだいの中で、父と過ごす時間が比較的長かったからかもしれ

理想の夫婦像は「永遠の片思い」

夫婦円満という言葉から、どのようなことを想像するだろうか? いつも仲良く、ニコニコと笑顔の絶えない家庭。お互いの欠点も認めつつ支えあっている夫婦。時には喧嘩をすることがあっても、大きな亀裂を生むほどではない。 おおよそ、このようなものではないだろうか? ◇ 一方、夫婦の形の原型というものは、身近なお手本として「両親」の夫婦関係に影響を受けるとも聞く。 極端な例だと、自分の異性親と似ている人を選ぶということもあるそうだ。 似ている人を選ぶ人がどうかは別として、身近な

親元を離れて「生きる」ということ

懐かしいほど昔ではないが、新しいほどの記憶でもない。 亡き父と過ごした時間は、心の中で変化していくのだろうか。 偲びて弔う気持ちとは、そういうコトなのかもしれない。 父が他界してから1年が過ぎようとしている。 ◇ 「お父さんが倒れた。帰ってきて。」という電話を受けて急ぎ実家へと向かおうとした。今から約1年前のことだ。 午後の3時頃のことだった。 子どもらは実家へと向かうことになるのだが、きょうだい3人のうち私だけは翌朝の始発便で実家へと向かうことになった。その日

「父に託された宿題を解く」という生き方

父が他界して10ヶ月が過ぎた。 経験したことがある人なら「10ヶ月」という数字にピンと来ると思う。10ヶ月後の命日は相続税申告期限だ。 この10ヶ月の間、いろいろな「初めてのこと」が起きた。大変という言葉以外に説明する言葉が浮かばないほど、大変だった。 父と娘という関係の割には親しいほうだったと思う。だが、今まで以上に、父のことを知る機会があった。 想像していた以上に、父は繊細な思考回路を持ち、細やかな配慮を尽くす人だったことを知った。そういう父の一面を知ることになっ

托鉢の僧侶に施しを

先日、都心へと出かけていたときのこと。 日本橋の下で托鉢する僧侶がいた。 僧侶のほうをチラッと見ながらも、私は急ぎ足で通り過ぎた。時間に追われながら所用を済ませる必要があったからだ。 そして私は目的地へと向かう間、父との記憶を手繰り寄せていた。 初めて「路上で托鉢をしていた僧侶に施しをした」と父に伝えたとき、諭された言葉を思い出したのだ。 父の考えによると、托鉢をしている僧侶の中には乞食のような考えの者もいるのだという。僧侶の恰好をしてタダでお金をもらおうとするとい

君子危うきに近寄らず?

どこかで聞いたことはあるだろう、この言葉。 賢く教養のある人間は、危険なことには近づかないといった意味合いで、怪しい儲け話を断ったようなとき、その理由を一言で告げるといった場面で用いる。 けれども、私は、この言葉に違和感を感じていた。 賢く教養のある人間は、そもそも危険なことに遭遇しないよう注意して行動するのではないかと考えたからだ。 父が危惧していたこと世の中の全てを見てきたわけではないと思うのだが、父はそれなりに経験を積み、仕事をしてきた。きれいごとでは済まない世

「生まれてきてよかった」と思える日まで

3人きょうだいの真ん中っ子。 幼き日、祖母から「あなたは要らない子として生まれた」と告げられたことで、心に闇を抱えて育った私は、生きていて申し訳ないと思いながら大人になった。 「生まれてきてよかった」なんて思える日がくるとは思えなかったが、それは、生まれてきてよかったと思える日まで生きていないだけのことだったのだ。 生まれてきてよかった。 50年以上も生きなければ、それを感じることはできないなどと、思春期の頃の私は想像だにしていなかったのだ。 ◇◇◇ 思春期の頃に

知らないことを「知る」機会は得難く

日常の中にも小さな気づきはある。 だが、「知らないことを知らない」ということに気づかず、「知らない」ということを知らないまま生きていることは案外あるものだ。 父の遺産分割協議が終盤を迎えている。 分割協議書と併せて、相続に関わる必要書類が送られてきて「印鑑」を押す場所の多さにハッとなった。実印を使ったことはある。けれども、こんなにバンバン押しまくるような状況は未経験だったので、一瞬、現実を疑ってしまったほど。 これらの数を間違いなくキチンと押せるだろうかと冷静に考えて

海が資産だというのなら

夫の車が修理を終えて戻ってきた。 台風15号で受けた被害の補修等は、これで一区切りがついたことになる。 まだ完全に終わったとはいい切れない。自分でやろうと思っている補修箇所、並びに、次の台風シーズンに向けて強化して備えたい場所に手を入れる予定が控えている。とはいえ、業者依頼必須の部分に関しては終了し安堵した。 父訪問の記憶「この町は海が資産だね。」 と、唐突に父が話を切り出した。 海の近くから離れたら、ただの田舎の辺鄙なところなだけ。だから、何かを投資するなら、この

音楽のちから。「明日の翼」とともに

いつもは使わない「JAL便」での移動が重なった。 今月のはじめ、2週間ほどの間に「JAL便」4回の搭乗。それ以来、耳の奥で、「明日の翼」が流れ続けている。 「明日の翼」とは、JALの搭乗者のために到着時に機内に流れる音楽で、作曲は久石譲氏。 この曲は、私の感情を揺さぶる。 「喜怒哀楽の全てが同時にあふれ出る」のだ。 ここのところ身体的に過酷なだけでなく、精神的にもキツイ時間が続いていた。喜怒哀楽が目まぐるしく入れ替わる。そのこころを抑えながら対外的には平静を装ってき

富士山は見えたか?

実家に帰省するたびに、父は私に聞いてきた、 「飛行機から富士山は見えたか?」 私が、 「うん、見えたよ。きれいに見えた!」 と報告すると、 「おぉぉ!きっといいことがあるよ」 と笑顔で返してくれた。 それは、私が実家を出て以来、30年近くも続いてきたことだったが、「いいことがある根拠」について父との会話で話題にしたことはない。 実際、何かいいことがあるという根拠があるというわけではないだろう。 おそらくは、いいことがありそうな予感がするねという程度の、見えた

世のため人のため

イマドキの世情として受け入れられないことは承知している。 しかしながら「世のため人のため」は父の座右の銘であった。 ◇ 父は、私生児としてこの世に生を受ける。 大正生まれの祖母、即ち父の母親が未婚の母となるのを覚悟で生んでくれたということ自体に大変な恩義を感じた父が「世のため人のため」を座右の銘としたことは、ごく自然のなりゆきだったのだろう。 ◇ 「闇に葬られても仕方のない命だった」と自らを称し、世のため人のためを全力で体現した父の人生。 その苦しみや悲しみを理

父と私と「4万円」

飛行機に乗るというタイミングになると父のことを思い出す。 それは、私が身なりにほとんど構わなかった頃。 いや、今もそれほど構うわけではないのだが、今よりももっと身なりに構わなかった時期がある。 当時は、十分にお金がないということもあり、身なりに構うコト自体に抵抗があった。着ているものが清潔でさえあればよいという考えだったので、どこへいくのも同じ服装。飛行機に乗るときも、近所に買い物へいくときも、同じ服装だった。 あるとき、実家に帰ったときのこと。 いつもは、羽田へと