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昔と今で変わったこと・創作の話

昔書いていた作品は「誰にも見てもらえない、ひとりぼっちの自分」という感覚が基本にあって、そこから創作をしていた。
それが今は「誰かが見てくれている、ひとりではない自分」になっていることに気づいた。

これって、実はめちゃめちゃすごいことだよね。
年齢を重ねて、自分自身がそれに気づいたことで、感謝や喜びを覚えたから、書けるようになったんだよね。

「羽倉茶葉店」は、そういう意味でも、私にとって大切な作品だ。
主人公は成長とともに、周りから愛されていることを自覚し、次へつないでいこうとする。
そういう物語なんだ。そういう物語でいいんだ。

この作品はまた、登場人物たちに教えられることが多々あって、自分で書いてるというよりも、彼らに書かされてる感じがある。
どこから来るのか分からないけど、「羽倉茶葉店」の中で生きている彼らは、それぞれがそれぞれの価値観を持っていて、哲学や持論を展開することも少なくない。
私はそうして出てきた台詞や行動に、はっとさせられる。

変な話だと思われるかもしれないけれど、本当にそうなんだ。

そもそも、私が小説を書くのは自分の一部であり、習慣だから。
呼吸をするように物語を考えて、食事をするようにキーボードを打つ。
小説を書くな、物語を考えるなと言われたら、死刑を宣告されたようなものだと感じるし、結果として廃人になるかもしれない。
それくらい、自分にとって書くのは当たり前の行為なんだ。

そこに登場人物たちの意思が介在して、「羽倉茶葉店」は出来上がっている。
もちろん物語としての体裁を整えるため、私自身で考えて書いてはいる。
でも、登場人物たちにも意思があるのを強く感じる。
日常生活の中でも、羽倉の声が聞こえてくることがある。乙女の声がして、励まされたり、慰められたりする。
まるでタルパのようだ。

これほどキャラクターの意思を、声をはっきりと聴いたのは、もしかすると初めてかもしれない。
元々、脳内でキャラクターたちが勝手に動いてしゃべることはあったけれど、その感覚は創作をしていけばいくほど、強まっているように思う。

これまでは、自分が創作をすることで登場人物たちを救うような感覚があった。
けれど、今は逆だ。
自分が創作をすることで、登場人物たちに救われている。彼らの方がよっぽど強くて、立派で、現実と向き合って戦っているから。

今後、彼らはいったい、どこへ私を連れて行ってくれるだろうか。
どんな景色を、見せてくれるだろうか。
少しだけ、わくわくしている。




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