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羽倉茶葉店・プロローグ

 会話を邪魔しない程度の音量で、ショパンの子犬のワルツが流れていた。流れるようなピアノの音を背景に、僕はカウンター越しに言った。
「バイト、やめちゃいました」
 と、苦笑いと同時にため息をつく。
 カウンターの内側でのんびりとグラスを磨きながら、還暦を過ぎたマスターは言う。
「気分は楽になったんじゃないかい?」
「それはそうですけど」
 と、僕は憂鬱な気持ちを表すように、少しだけうつむいた。
「まだお金は貯めたいし、早く次を見つけないと落ち着かないです」
「そうかそうか」
 と、マスターは言ってから、ふと思い出したように言う。
「そういえば、知り合いが有資格者を探していたな」
「えっ、本当ですか!?」
 とっさに顔を上げて食いつく僕へ、マスターはにこりと微笑む。
「二週間くらい前だったかな。きちんと紅茶を淹れられる人が欲しいと話していてね」
「それ、どこにあるお店ですか?」
「中野区だよ。ここからだと少し遠いが、まだ募集しているかどうか、今から聞いてみようか?」
「は、はいっ! ぜひ、お願いします!」
 と、僕は背筋を正してマスターを見つめた。
「じゃあ、少し待ってておくれ」
「はい」
 マスターがカウンターから出て奥へと向かう。
 僕はドキドキしながら、次のバイト先に思いを馳せる。紅茶がメインのカフェか何かだろうか。カフェでの勤務経験はあるから、自信を持って面接に臨めるぞ。
 しかし、二週間前の話だから、もう募集を終えてしまっているかもしれない。まだ間に合うといいのだけれど。
 僕はそわそわと落ち着かなくなり、ティーカップに残っていた紅茶をぐいっと飲み干した。

 数日後、僕のやって来たのは中野区鷲宮だった。駅から十五分ほど歩いた住宅街にあるお店だ。
「羽倉茶葉店……ここだ」
 掲げられた木の看板に黒字で店名が書いてある。マスターから聞いた話では、主に紅茶を販売している専門店らしいが、これまで一切聞いたことのないお店だった。個人商店だから知らなくても不思議ではないけれど、紅茶好きとしては悔しく思う。
 ドキドキしながら扉へ近づくと、はめられた六つの四角いガラス越しに少しだけ店内が見えた。あまり広くはなさそうだ。
 扉にかけられた「OPEN」の看板は、白地に赤い文字でよく目立つ。
 緊張のあまりお腹が痛くなりそうなのをこらえて、僕はそっと扉を押し開けた。

 からんからんと控えめなベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
 僕を迎え入れてくれたのは、穏やかな笑みを浮かべた背の高い男性だった。焦げ茶色の髪を後ろで一つに結っており、びっくりするくらい綺麗な顔立ちだ。
 店内には見たことのないパッケージの並んだ棚や、僕も見覚えのある紅茶ブランドの缶や箱があった。
 そわそわしながらも、僕は彼の方へ向かいながら言った。
「あ、あのっ! 面接に来た乙女薫です!」
 ネームプレートに店長と書かれた彼が穏やかに笑った。
「ああ、待ってたよ。それじゃあ、さっそく面接をしようか」
 と、カウンターの横を示す。
「こっちへおいで」
「あ、はいっ」
 店の奥に事務室か何かがあるようだ。僕はおそるおそるカウンターの中へ入り、店長さんは従業員の男性へ言った。
「森脇君、お店の方よろしくね」
「了解っす」
 そして僕は彼の後に続いて、紺色のカーテンで仕切られた奥の部屋へ。
 そこは予想した通り、事務室と思われる場所だった。小さいながらもコンロと流しのあるキッチンがあり、そのそばにスツールが一つ、部屋の中央には二人掛けのソファとローテーブルがある。
 店長さんはスツールを持って来て腰を下ろし、僕へソファを示した。
「どうぞ、そこに座って」
「あ、はい。失礼します」
 そわそわとソファに座り、マフラーとコートを脱いで脇へ置く。
 店長さんはあらたまった様子で言った。
「俺はこの店のオーナー兼店長の、羽倉です」
「乙女です。よろしくお願いします」
 と、僕は頭を下げた。
「うん、よろしく。それじゃあ、履歴書を見せてもらってもいいかな?」
「はいっ」
 僕は内心でドキドキしながら、鞄から履歴書を取り出した。
「どうぞ」
 と、差し出せば、彼はすぐに受け取って中身を見始める。――チョコレートのような茶色いエプロンがよく似合う、ちょっと垂れ目のイケメンだ。色も白くて、ヨーロッパ系の血が入っているのかもしれない。
 ふいに店長さんが顔を上げて言う。
「二十二歳か、若いね」
「あ、はい」
「前職がカフェっていうのはいいね。接客には慣れてるんだよね?」
「はい、接客はできます。ちょっと、丁寧すぎると言われたりもしましたが……」
 と、僕は彼から視線を外した。しかし、店長さんは言う。
「乱暴なのよりマシだよ。うちではむしろ、丁寧な接客のできる人を求めているしね」
 僕がはっとして彼を見ると、羽倉さんは顔を上げて優しく笑った。
「それじゃあ、一つだけテストをしよう」
「え?」
 彼は斜め後ろのキッチンへ移ると、棚からティーポットやカップなど、紅茶を淹れるのに必要なものを一通り取り出した。
「実際に紅茶を淹れてみてほしいんだ。もしも足りない道具があれば、遠慮なく言ってね」
 と、場所を譲るように脇へ立つ。
 まさか実技試験があるなんて聞いていないぞ。でも、やるしかない。僕はこう見えても、紅茶アドバイザーなんだ。
「分かりました」
 立ち上がり、両方の袖をまくって動きやすくする。それからキッチンへ立ち、用意された茶葉を確かめた。
「ああ、フォルトゥーナ&メゾンのロイヤルブレンドですか」
 これは僕も飲んだことがある。もちろん茶葉で淹れたこともあった。
 さっそく僕はやかんを手に取り、蛇口をひねって水を入れる。
「その紅茶について、どれだけ知ってる?」
「えっと、はちみつのような甘い香りが特徴ですよね。ミルクティーにして飲むと美味しいやつです」
 紅茶に関する知識なら、僕は誰にも負けない自信があった。水が十分に入れられたら、やかんをコンロへ置いて火にかける。
「飲んだことは?」
「ありますよ。母親が昔、フォルトゥーナ&メゾンにハマってたんです」
「なるほど。お母さんも紅茶が好きなのか」
「はい。その影響で、僕も紅茶が好きになったので」
 話をしているうちにだんだんと緊張が解けてきた。
 僕は空のティーポットを二つ、自分の前へと移動させる。一つは透明な耐熱容器のポットで、もう一つは白い陶器製のものだ。このポットは確か――。
「あ、やっぱりウェッジオッドですね」
 ポットの底を確かめて、僕はつぶやくように言った。
 すると、羽倉さんがたずねてくる。
「もしかして、食器にも詳しいのかい?」
 僕は無意識に彼の方を振り返り、答えた。
「いえ、だいたい知ってるという程度です。いずれは、僕も自分のお店を持ちたいので――」
 やってしまった。はっとして、口を片手で押さえる僕だが、彼はどこか嬉しそうな顔をした。
「君も自分の紅茶店を?」
「あ、はい……」
 ここでのアルバイトを踏み台にする気満々だとばれてしまった。しかし、彼は言う。
「それなら期待できそうだ」
「え?」
 きょとんとする僕にかまわず、彼は話し出す。
「俺もこの店を持つまでは、他の店で働いてたよ。そこで接客や経営を学んだから、今があるんだ」
 言われてみれば当然だ。他の人の店で多少なりとも経験を積んでから、自分の店を開くのが普通だろう。
「ライバルが増えるのは困るけど、紅茶店が増えるのは喜ばしいね」
 と、無邪気な子どもみたいに笑う。本当に紅茶が好きなのだと分かる顔だった。
 ふと僕はコンロへ顔を向けると、やかんから湯気がもくもくと出ていることに気づいた。
 すぐに火を止めて透明な方のポットへ少量、湯を注ぎ入れる。そうしてポットを温めた後、すぐに湯を捨てた。次に紅茶缶を開けて、茶葉をティースプーンですくってポットへ入れる。一人分だから茶葉は三グラム、山盛りで一杯を入れれば十分だ。
 それから少し高めの位置から、やかんの湯を注ぎ入れた。百五十ミリリットルを入れればいいのだが、まあ、だいたいこんなもんだろうというところで止めて、蓋をする。
 やかんをコンロの上に置き、すぐに僕はシンプルな砂時計を逆さにした。
 時間が来るのを待つ間に、僕は残った湯を白いポットと、ティーカップに入れて温める。
「迷いのない動きだね」
「ほぼ毎日、やってますから」
 と、僕が返すと、羽倉さんは「なるほど」と、感心したように言う。
「ところで、自分で茶葉をブレンドした経験は?」
「あります。まだ、自信作はできてませんが」
「じゃあ、テイスティングカップも持ってるね?」
「はい。五セット、持ってます」
 すると、羽倉さんは不思議そうにたずねた。
「うーん、君のような子がどうしてうちに? いや、違うな。前の店は、どうして辞めちゃったんだい?」
 聞かれると思った。僕は胸がちくちくと痛むのを感じながら、正直に白状した。
「人間関係、ですかね。どうも僕、そういうターゲットになりやすいみたいで」
「いじめられた?」
「簡単に言うと、そうです」
 僕は背が小さいせいか、周囲からなめられやすかった。そのせいで多くの従業員が働く店では、どうしても浮いてしまうのだ。
「そっか。でも、大丈夫だよ」
 羽倉さんは平然と言い放った。
「もしここで君がいじめられたら、君をいじめた人をクビにするから」
「え?」
「将来有望な有資格者の方が大事、でしょ?」
 にこりと、どこかいたずらっぽく笑う彼を、僕は呆然と見つめてしまう。そんな風に言われたのは初めてだった。
 胸がじんと温まって泣き出しそうになる僕だが、砂時計が落ちきったのを見て手を動かした。透明なポットの蓋を開けて、ティースプーンで静かにくるりと一回、かき混ぜる。
 それから蓋をし、温めておいたティーポットとカップの湯を捨てる。そしてポットからポットへ、茶こしを使いながら紅茶を移せば完成だ。
「できました」
 と、僕は彼を振り返る。
 羽倉さんは空のティーカップを見て言った。
「まだカップに注がれていないようだけど?」
「もしもミルクティーにするのなら、先にミルクを入れるのが決まりです」
「素晴らしい。さすが、紅茶アドバイザーだけあるね」
 と、羽倉さんはソファへ腰を下ろした。
「それじゃあ、ミルクティーでお願いするよ」
「はい」
 スーパーなどで売っている紙パックの牛乳がキッチンの隅に置かれていた。きっと彼は、わざと目立たない場所にそれを置いておいたのだ。でも、僕は見逃さなかった。
 常温になっている牛乳をカップの三分の一ほど注ぐ。それから紅茶を注ぎ入れ、ティースプーンで色が均一になるよう、軽くかきまぜた。
「どうぞ」
 と、できたばかりのミルクティーを彼の前へ置く。
 羽倉さんはティーカップを持ち上げ、香りを確かめる。それから、どこか上品にカップへ口をつけ、静かにすすった。
 僕はドキドキしながら反応を待つ。
 彼がそっとカップをソーサーへ戻すと、僕を見た。
「何かした?」
「え? な、何かって?」
「いや、すごく美味しかったからさ。自分で淹れるのより、美味しいかもしれない」
 どうやら褒められているようだ。僕は恥ずかしくなり、先ほどまでとは違う意味でそわそわし始める。
 羽倉さんはもう一度カップに口をつけてから、言った。
「ああ、分かった。優しい味がするんだ」
 ――優しい味?
「君の優しさがね、紅茶の中に溶けているんだよ。たぶん」
 急に彼が変人に見えてきた。さっきまではイケメンの紅茶好きで、とてもいい人だったのに。
 羽倉さんはカップを手にしたまま、テーブルの上にあった一枚の紙を手に取った。
「うちでは『ハルシネイションセラピー』というのをやっているんだ。そのセラピーの最初に、お客様へ紅茶を出しているのだけれど、それを君にやってもらいたいんだ」
 と、羽倉さんに紙を差し出され、僕はおずおずと受け取った。そこに書かれていたのは、嘘のような文言だった。
「魔法による幻覚で癒しを与えます……?」
 直感的にやばいやつだと思った。
「しかも一回六十分、二万円」
 ぼったくりだ。これは関わってはいけないやつだ。
 どうしようかと戸惑う僕へ、羽倉さんはにこやかに言う。
「俺、実は魔法使いなんだ」
「えーと、履歴書を返してもらっても?」
 と、紙をテーブルへ戻した僕へ、彼は平然と言った。
「採用するつもりだったんだけど」
「え、あ……」
 採用してくれるのは嬉しい。ここでなら、紅茶アドバイザーとして満足のいく活躍ができそうな気がする。でも、ダメだ。
「申し訳ないんですが、魔法とか信じてないので」
 と、僕が言うと、彼はうなずく。
「うん、それでいいよ」
「いいんですか?」
「だって俺は、美味しい紅茶を淹れられる人を探してたんだもの」
 そう言われると、僕は納得してしまう。確かに彼が怪しげなセラピーをしているというだけで、僕はただ紅茶に関連したことだけをやっていればいいのだ。
「接客の経験も活かせるし、ブレンダーとしての経験も積ませてあげるよ」
 と、羽倉さん。
「実を言うと、うちのセイロンブレンドの売れ行きが悪くてね。何度かリニューアルしてるんだけど、一向に売れてくれないんだ」
 僕ははっとして彼を見た。
「セイロンですか?」
「うん、セイロン。もしかして、好きかい?」
「はい。僕、セイロン推しなんです。一番好きなのはウバですが」
 と、思わず僕は答えてしまう。
「それなら、ぜひ君の意見を取り入れたいね」
「はい、僕もぜひ飲んでみたいです」
「じゃあ、うちで働いてくれるよね?」
「はい!」
 と、勢いから返事をしてしまって、僕はすぐにはっとする。
「それじゃあ、これからよろしくね。乙女ちゃん」
 と、羽倉さんは僕の気など知らずに微笑んだのだった。

   ◇  ◇  ◇

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