風花の想いと恋簪
本当の恋は、どこにあるのだろう。
お縫は思う。最近は特に。
「姐さんは、どうして恋をしたの?」
昔語りをしてくれた千瀬姐さんは、お縫の問いに淡く笑うのみで。
「それがわからないから、『恋』というのよ」
そのあでやかな笑みに、お縫はただ見とれるばかり。
それでも、まっとうな恋なんて、自分には出来ないなと思う。
お縫の仕事は―――一晩だけの、夢を見ることを手伝うこと―――なのだから。
「なに、お縫ちゃん、いいひとでもできたの? 物売りのあの坊ちゃん? それとも………」
姐さんの言葉にも、首を振ることしかできない。
言ってしまおうか、そうしたら、この気持ちが少しでも、楽になるかもしれない。姐さんのことは信用できる。前に話してくれた、姐さんの思い出話は、眠っていたお縫の感情を呼び起こしたのだから。
「姐さん、聞いてくれる?」
千瀬姐さんはもちろん、と大きく頷いた。抱き寄せられて、頭を姐さんの豊満な胸に押し付けられた。
正直、少し苦しい。
「あたし、身請け……されるかもしれないんです」
姐さんは一度大きく息を吸ったあと、うそ、とかすれた声でつぶやいた。
驚くのも無理はない。妓楼で仕事をしているからといって、お縫が男に体を売っているかと言えば、そうではない。
一年後、それが仕事になるという予定だった。今はまだ、下働きの身。
齢15歳の彼女は、体も小さく、女のしるしもまだ来ていなかった。
だから、姐さんが驚いたのも無理はない。
「誰に? ってあァ、そっか。客をとらないお縫ちゃんには、ただ一人のお客がいたわね」
察しのいい千瀬姐さんの言葉に、お縫は頷いた。
まだ客を取ることのできない妓楼の少女には、特別な客が一人だけいた。
名前は知らない。
ただ、妓楼へとやってくるとお縫を呼び、酒と肴を共に楽しむ。
みなは、「梅屋の若旦那」とその人を呼んでいた。
妓楼に来る娘は、なにかしら事情を持っている。
それこそ千差万別であるが、大きな違いでくくれば、たいがい同じだったりする。
すなわち「飢えから逃れるため」。
例えば自分自身が暮らしていくために。家族が暮らしていくために。買い付けの商人はわずかな金で娘を買い、妓楼へとつれてゆく。
誰かを生かすために、少女は妓楼にやってくる。
お縫もその一人だった。
雪深い山裾で、その日の食べ物を必死でかき集めて、爪に火をともすような生活を続けていた。家族がその日その日を生きてゆくのが精一杯で、他のことにはなりふりかまってはいられなかった。
だから、恋というものもわからなかったのかもしれない。
だから、外に出たかったのかもしれない。
「今年の冬は、もうだめかもしれないねぇ」
日も落ちてとっぷりと暮れた夜中。小さな熾き火の明かりを頼りに繕い物をしていた母はぼそりと小さな声でつぶやいた。
一番年上のお縫は母の夜なべに付き合い、藁をならして蚤を作る準備をしていた。
雪がちらちらと舞うような季節に入り、野菜は目に見えて収穫量が減っていた。
「まだ、もう少しならお米もあるよ」
それに、とお縫は続けようとした。
頑張れば、繕いや他のものをもう少し大きな村に売りに行くことができる。
だから、大丈夫。
そう続けようとした声は、途中でかぼそく消えた。
そんなものをつくる材料など、とうにありはしないのだ。
沈黙が落ちた二人の間をあざ笑うように、外ではびゅうびゅうと雪をはらんだ風が吹き、戸をたたいている。
このままでは、母の言うとおり、冬でだめになってしまう。家族の命は、ついえてしまう。
「そんなの、だめ」
お縫は強くつぶやいた。家族の誰も、命の灯火をけして欲しくない。欠けてはだめ。では、どうしたらいいのか。
その年、お縫の住む土地へ、妓楼で働く娘を探して男がやってきた。はじめは下働きでもいつかは女郎として働くことになる、という事実にお縫の母は反対したが、結局お縫は男と共にここに来た。
あの時母に渡された金子は、家族の命をつないでくれただろうか。冬を越すことができて、食い扶持が減ったから、きっと少しは楽だろう。
名残惜しさも、悲しみも後悔もない。命をつないで、幸せを求めるのなら、これしか方法がなかったのだと、お縫は長じてもその考えを捨ててはいなかった。それは事実であったし、お縫自身は妓楼で働くことによって飢えも渇きも、寒さも暑さにもわずらわされない生活をすることができるようになった。
ただひとつ、そう、求めているものがあるとすれば、ただ一つだけ
「……ちゃん、お縫ちゃんっ!」
名を呼ばれていると気づいて、お縫はハッと我に返った。物思いにふけりすぎたようだ。心配そうな表情で千瀬姐さんがのぞきこんでいた。
「あ……ごめんなさい、姐さん」
「いいけど、別にねぇ。具合が悪くなったかと思って心配しちゃったわよ」
ほら、心配事があったり、感極まったりすると、ぶっ倒れたりするじゃない? と千瀬姐さんはからから笑って場を和ませてくれた。元気ならいいのよ、と頭上で甘い声が宙に散る。
労わりに満ちた声に、じわりと涙が浮かんだ。思い出さないように、していたのに。
「あたし、嫌いじゃないです。若様のこと。でも、………っ。でも」
姐さんは余分なことは口に出さず、ぽん、ぽん、と規則正しく頭をなでる。
お縫は堰を切ったようにあふれ出す涙をぬぐうこともせず、口をひらいた。嗚咽交じりの声を、言葉にまとめようと必死になりながら。
出立のその日。見送る者は母しかいなかった。
妓楼で働き、のちのち体を売るような仕事をするような娘を、喜んで見送る者などいやしないだろう。
怒ったような顔をして、仁王立ちでお縫をにらみつけて見送った母は、最期に「元気で」とだけ行って背を向けた。
怒りの矛先は、娘と自分自身、そして、色々なことだっただろう。腹を痛めて産んだ娘を、金子と引き換えに差し出す母。そのようなことを、喜んでできるような人じゃなかったから。だから、あの背中は泣いていたのだと、お縫は知っていた。
願うのは、命が続くこと。可能な限り、頑張れと、頑張るからと、母は願ってくれているようだった。
初めて乗せられた乗り物は以外に楽で、落ちてくる雪を楽しむ余裕さえあった。ぼんやりと空を見上げていたお縫は、耳慣れぬ音を聞いてふと後ろを振り返った。
驚いた。それはもう、生まれてこのかた、このくらいはないというほどに。
―なにが、どうして?
正直な気持ちは、この一言だった。お縫は思わず乗り物から身を乗り出すと、
「何やってんのよ、吉太!」
叫んだ。
吉太は同じ土地の生まれで、同じ年の少年で、お縫の幼馴染だった。けれど、最近は共に遊ぶなどということもなく、お縫が今日出立することなど、伝えてもなかったはずだ。
なのに、なぜここにいるのか。お縫の乗る乗り物を追いかけて、走っているのか。
「とめて! お願いです、とめてっ!」
お縫の必死の声に驚いたのか、程なく乗り物は止まり、お縫は居心地の良い乗り物から飛び降りた。
「おい!」
怒声が背中にかかるが、お縫は臆せず「すぐ戻るから!」と怒鳴り返し、吉太の元にかけよった。
「吉太、なんであんた、ここにいるの?」
「なんでって、おまえ、今日いなくなるって」
それがなんだ? 心の底からお縫は思ったが、吉太は真剣な顔をして、そこに立っていた。
息を飲む。それ以上、何も言葉は出なかった。
ぐいと突き出された吉太の手には、かんざしが握られていた。無骨な作りの、木を彫って作っただけのかんざし。
「なに、これ」
「やる!」
女物の装飾物を贈るのは、このあたりの風習では、求婚の意味を持っていた。
千瀬姐さんは、目を見開いていた。その口元は、笑いをこらえて震えている。
「姐さん?」
問うと、「ごめん、続けて」と震える声が返った。
「………」
「あぁ、ごめんね。いやね、あんたそのときいくつだったっけ?」
「十を過ぎたくらいです」
「やっぱり」
「やっぱり?」
頷かれたのと、笑われ続けられたことから、どうせ馬鹿にされてるんだろうなと思いながら、お縫は話を続けることにする。
「どういう意味?」
お縫は半眼になって、問うた。今からこの土地を離れる娘に、餞別代りに渡すには、少し意味が深すぎやしないだろうか。
「どういう意味って、その………」
吉太はまごまごして、頭をかく。その様子にじれったさを憶えて、お縫は吉太のすねを思いっきり蹴っ飛ばしてやった。
「いたっ!」
「………いつか、迎えに来てよね! それまでこれは、つけないでいてあげる。そんで、いっちばん似合うくらいの美人になってやるわよ!」
いっそ潔いほどの啖呵を切って、かんざしを奪い取るように握り締めると、お縫はきびすを返して乗り物に乗り込んだ。
お互いの赤い顔は、見なかったことにして。
がたごとと音をたてて走る乗り物の中で、かんざしを握り締めてお縫はうつむいた。
恋心かどうかもわからなかった、この淡い約束は、この時からまだ果たされてはいない。
話を聞き終えて、千瀬姐さんは「今日はお座敷の手伝いはいいわ」と言い置くと去って行った。店がはけた朝方にもう一度おいで、と言い添えて。
ほとほと泣き疲れたお縫はどちらにしても仕事はできなかったし、する気分でもなかった。
自室に戻って棚を漁れば、この妓楼に着いてから、かろうじて自分の持ち物として許されたいくつかの物が転がり出た。その中に、あの時のかんざしも含まれていた。
「若旦那のことは、嫌いじゃない。嫌いなんかじゃ、ない」
むしろ、好きだと思う。けして愛情ではないけれど。
お座敷に呼ばれて、お話をして、お酒をついで。それだけで金を落として言ってくれるのだから、申し訳ないくらいなのだ。
そんな彼が、この仕事から救い出してくれるのだという。
どちらを選べば、良いのだろうかと迷う。
かんざしを両手のひらで転がせば、くるりくるりとかんざしはまわる。絵柄が変わる。
「吉太、会いたいよ」
お縫はつぶやく。でもこないで欲しいとも願いながら。
結局、いつのまにやらうとうとしていたらしく、気づけば空の色は藍色がぼやけた白っぽい色に変わっていた。
「いけない」
お縫は慌てて立ち上がると千瀬姐さんの部屋へと駆けつけた。
姐さんは、鏡台の前で結い髪を下ろしているところだった。
「おや、お縫ちゃん。目が覚めた?」
鏡越しにあでやかな笑みを見せられて、お縫はこくこくとうなずく。ついでごめんなさい、と頭を下げる。
「いいのよぉ。泣くと疲れるでしょ? すっきりした?」
聞けば、一度部屋をのぞいてくれたのだという。正体なく寝こけていた顔を見られてお縫は心底恥ずかしかったが、自分に非があるばかりのことなので、何も言えなかった。
「気にしないで。あたしが休んでいいって言ったんだから、さ。ほら、こっち来て…………」
不自然にとまった言葉につられて姐さんを見ると、目を見開いて絶句していた。心なしか肩が震え、口元が歪んでいる。
わけがわからずオロオロしていると、
「お縫ちゃん、寝相、悪い?」
と意味不明の問い。
「いえ、そう悪くは……」
なかったと思いますけど、と反論しようとしたが、鏡台の前に座らされて自分の姿を見ると、お縫は益々落ち込みたくなった。
あちらこちらにはねた髪が、自由に自己主張している。そのとんでもない姿に目を白黒させている間に、姐さんはお縫の髪に櫛を通していた。
「あ、ありがとうございます」
「ん~? いいの。たまには人の髪触るのもいいもんだわ。綺麗になるのも好きだけど、綺麗にしてあげるのも楽しくてねぇ」
言う間にするすると結い上げられていく。
「お縫ちゃん、考えたんだけれどねぇ」
姐さんは髪に櫛を通し、紐で結い、形作りながら歌うような口調でお縫に語りかける。
「本当に惚れた男には、気持ちを伝えた方がいいよ。気持ちが軽くなる。どうなるにしても」
「そ、う……ですね」
「でさ、そんなお縫ちゃんに、一つ私から贈り物をしてあげよう」
髪ができあがると、今度は化粧をほどこされた。いつもより少しだけ控えめの白粉に、紅は淡い桜色。
立ち上がりなさい、と言われて素直に従うと、姐さんの一張羅の衣が着せられた。
「姐さん、悪いです!」
「いいの、気にしないで。それに、贈り物はこのことじゃないの。……あら、その手の、いいかんざしね」
寝る直前まで持っていたかんざしは、そのまま持ってきてしまっていたらしく、髪に挿されてしまった。
どこかまだ落ち着かないお縫の顔を両手で挟み、あでやかに姐さんは微笑んだ。
「女はね、『花』で『雪』なの。大輪の蕾を咲かせて、想いを積むの。お縫ちゃん、女に生まれたからには、それを望んでもいいの。それが怖いのなら、お縫ちゃんは『風花』になりなさい」
「風花?」
「雪がちらつく日のこと。まるで、花びらが降って来るように見えたから、そう言われたんでしょうね。想いをつのらせてるけど、上手くいえない。お縫ちゃんにぴったり」
お縫は入ってきた場所から背中を押された。勢いづいた足は、数歩進んで止まった。振り返れば、姐さんが深い笑みのまま、手を振っていた。
「いってらっしゃい。いつものとこよ」
それだけで、姐さんが言う『贈り物』の意味が、わかったような気がした。
「おはよう」
いつもの場所。それは、お縫と彼が、いつも会う場所。けれど、いつもは夜で、こんな朝方のことじゃない。
「千瀬姐さんに、呼ばれたんですか?」
「そうだよ」
あいさつもなしの不躾な問いにも、彼はいつもどおりにこやかに答えた。
「お縫に会いなさい、とただそれだけだったがね。驚いたよ」
穏やかな口調にお縫は泣きたくなる。吉太に会いたい気持ちが、それを促す。
「どうか、したの?」
優しい優しい若旦那は、この吉原に来た時に、お縫を初めから呼んでいた。かといって、他の客が求めるようなことをしようともせず、ただ酒を飲んでたわいもない会話を楽しむだけ。
「ど、して………」
「?」
「若旦那は、どうして、あたしを選んでくれるんですか?」
体も未成熟で、女らしいところなど、一つもなくて。ましてや他の男のことを考えていて。
そんな自分を、座敷で相手に呼び、しかも身請けしてくれるだなんて。
そんなの、何かがおかしいのではないだろうか。
「選んだ、と言うより頼まれた、というべきなんだろうね」
若旦那は、卓の上で組んでいた手をほどき、握っていたものをお縫に見えるようにした。
練り金細工のそれは、素人目から見ても、とても素晴らしいものだ。意匠は鳥だが、今にも飛び立ちそうな気配がする。
「これを作ったのは、まだ若い職人でね。そうだね、だいたい、一年ほど前からうちで住み込んで色々作ってもらってるんだよ」
一年前。お縫が目の前の若旦那に座敷に呼ばれるようになった頃だ。
「その職人が、自分の給料は生活できるだけでいいから、他の分はあることに使ってくれ、と言うんだ」
それで更にあまった分は、溜めておいてくれ、まとめて欲しい。
常であれば、そんなわがままは通用しない。だが、職人の腕はこの条件を飲むに値した。
「商人は先を読む才に長けていなければならない。彼の腕は、他にやるには惜しくてね」
梅屋は、彼の条件を飲むことにした。彼のやる気と腕は梅屋に大きな利益をもたらしているらしい。
「その彼の給料は、どこに行っていると思う?」
手の中の細工物をもてあそびながら、若旦那はお縫を見た。
なぜそんな話を今、ここで聞かなければいけないのか。わけがわからずお縫は座り込む。そうだ、茶を出さねば、と手が動く。
「吉原で働く、ある娘に、その金を使ってやって欲しいと言われて、私はそれをしているんだよ」
下働きの娘の給金は高くない。客をとって初めて、マシといえる給金が支払われる。
お縫の場合は、お縫自身の生活費くらいしか、給金は出ていない。若旦那が来るようになって、少しの仕送りができるようになった。
「まさか、いえ、嘘です」
「嘘だと思う?」
若旦那は穏やかに微笑む。
「嘘だと思うなら、そう思えばいい。だけど、君の座敷での花代も、身請けの金も、彼の技術に支払われるべきものが元になっているんだよ」
唇が震える。期待を持っていいのだろうかと、お縫は茶を差し出す手を止めて、若旦那を見た。
「その、職人の名は」
吉太と言いませんでしたか?
震える唇から生まれた声は、やはり震えた言葉となって紡ぎだされた。
若旦那の笑みが深まった。
「本名はそうらしいね」
お縫は泣き崩れた。
それから一月後。
お縫は吉原を身請けされて出ることとなった。
客もとらない下働きの娘が身請けされて妓楼を出るなど前代未聞だと騒がれたが、すぐに落ち着いた。
格の高い女郎が出て行く時のように派手派手しさがなかったからかもしれない。
そしてさらに時は経ち、ある商家で小さな祝言があげられた。
祝言の主役は、いまや名を知らぬものなどない梅屋の一等職人と、その妻となる女。
花嫁装束の女性の髪には、不恰好ながらも味のあるかんざしが飾られていたのだと、少しの間話のタネになったという。
―風花の想いと恋簪 終
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