百日紅

「百日紅はね、樹皮を切ると中から赤い汁が出るのよ。まるで血みたいに」

 そう言って笑っていたあの人は、この世界から、私の前から、姿を消した。
 その身に花弁のように紅い花を散らして。最後の吐息とともに、白い衣服が、紅い花まみれになった。
 暖かいぬくもりも、優しい微笑みも、その日からなくなって。
 まるでなにもかも、はじめからなかったかのような喪失感から、いつしか物事に対して諦めることが多くなった。
『叶わないものは諦めてしまえばいい』。
 そう思えば、自分は傷つかないから。
 それほどに大切だったと気づいたのは、失った後で。すべてが遅かったと後悔するにはまだ幼すぎた。

 あの人はいつも優しかった。あの人は、いつも微笑んでいた。
 幼い私はあの人を傷つけることもあっただろう。それでもあの人は受け止めてくれたし、私に自分が子供だとわからせてくれた。
 制御のきかない幼さは堂々巡りを栗貸したけれど、けれどあの人はいつも優しく笑っていてくれたいた。
「大丈夫だよ」
 それを聞くだけで安心していた自分。それが聞きたくてわがままを言っていたのかもしれない。
 今思えば、依存しきっていたその幼い心。守っていてくれたのはあの人。
 あの人がいる限り、私は無敵だと感じていた。それほどに大切にされて、守られていた。
 手をつないで、ゆっくりと帰った夕暮れ。
 空が高いねとつぶやいて、幾つかの歌を歌いながら、隣で微笑んでくれていた。
 あの日の夕暮れが、私のあの人の顔を真っ赤に照らしてくれていた記憶もまだ新しい。

 百日紅の話を聞いたのは、庭の植物について尋ねた時だった。
 庭にはよく手入れされた植物がいくつか植えられていたけれど、あの人は特に百日紅が好きで、花が咲くといつも以上に嬉しそうに笑っていた。
 なぜかと尋ねた私に、あの人は百日紅のお話が気に入っているの、と返した。
「私が聞いたのは二つ。名前の由来と、すこし変わった話」
 そう言って、始められたあの人の話。
 結局はつながっていて、同じ話だったけれど。
 あの人はとても嬉しそうに話してくれた。
 ふっさりと紅くも薄淡い桃色にも見える花をつけた枝に、手を伸ばしながら。
「いつか、あなたにもわかると思うの。私がとても幸せだと言うこと。その時にはどうか、私の話を思い出してね」
 あの人はそう言って、でももう少しだけゆっくり大人になってねと笑っていた。

 物心ついてからは、気恥ずかしさから手をつないで歩くことはなくなった。寂しいというよりも、大人ぶってみたかった私にを、あの人は受け入れてくれた。
 ずいぶんひどいことを言って離した記憶があったけれど、それでも、あの人は見守っていてくれて、心のどこかで自分を支えてくれていたのを知っている。
 最後に伸ばされた手を掴んだのは誰だったのか―――
 滂沱たる涙を流す自分に、最後まで微笑んでくれていた。
「大丈夫だよ」
 そう言って。
 あの人と別れを告げてから、その後になって思い出すようになってから、当たり前だったことに感謝を覚えた。
 避けられない別れに、「また明日ね」と軽くあいさつするようにして、自分を残していった。
 あの人は、自分が幸せだったから。
 自分といて幸せでいてくれたから。
 その全てか゛愛しかったのだと、少しもったいないけど公開はしていないと、笑っていってしまった。
 別れてすぐにはわからなかった。
 今になってわかる。あの人の微笑みと言葉の意味。
 だって、今なら自分も笑って言えるから。
 「大丈夫だよ」と。
 一人で歩く道はいつだってつらいけど、守ってくれていた時に勇気をもらったから。だから、一人で歩き始められる。
 思い出を振り返りながら、あの時話してくれていた、百日紅の話を思い出す。
 あの人が言うとおり、私が大人になったことの証かもしれない、と苦笑が漏れる。
 優しい、微笑みを含んだ声で、頭の奥で百日紅の話が繰り返される。

「百日紅はね、『猿が滑るくらい樹皮がつるつるしてる』のよ。そして、樹皮を切ると中から赤い汁が出るの。まるで血みたいに。だから紅。って言う字が使われてるのね。私はまるで人間みたい、って思うから、この花が好き」

 優しい微笑と、言葉。
 たくさんの勇気と想い出をくれたあの人に、今なら言える。

「ありがとう、さようなら」

 百日たっても忘れられないような紅い花を、胸に抱いて。

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