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「おつきさまの おかあさんは どこ?」

「おかあさん」という言葉に、子どもといういきものは無条件に安心感をもつものなんだろうか。

いつものように近所の温泉にむかう、もうとっぷりと日が暮れた夜道。
4才の息子を背中におんぶして歩く、家から車までのほんの数メートルの、夜のおさんぽ。

お風呂がないわが家は、毎日のように夜は近所の温泉に行く。
4才ともなるともうずっしりと重たくて、わたしの背中と腕は息子の身体でいっぱいだ。

見上げた空には月がぽっかりとひとりで浮かんでいた。

「今日もおつきさまキレイだねえ。」と言うわたしの背中で息子は、「おつきさまの おかあさんは どこ?」と言った。

下のむすめが生まれてからというもの、おんぶやだっこの特権はすっかり娘にとられてしまった息子。

温泉に行くときだけは、息子をおんぶして行くという型がいつのまにかできていたのは、「このときだけはおんぶしてもらえるのがぼくの特権!」とおもっているのかもなぁとおもう。

台所でにんじんを切っていても、「にんじんさんの おかあさんは どこ?」と言う息子。

いわゆる日本的な母像からはほどとおいわたし。『母』だとか『妻』だとか、肩書で見られることはだいきらいだけど。

この子たちの母であれることはしあわせなことだと、しみじみと思う瞬間。






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